報われましたよ。
志望校の選択では、「なるべく家から近い高校」を基準に選びました。
遠い場所(浜北区)にあった新規開校する予定の高校か、どちらかを選ばなければならなかったけど、迷わずボクは母校となる県立浜松商業高校を選びました。
選んだ理由は、家から近かっただけではなく、高校野球が盛んであったことも考えてのことでした。
中学二年の春休みに、当時所属していたバスケット部の更衣室で着替えをしていたら、同期のバスケ部員が慌てた様子で駆け込んできて、開口一番「浜松商業高校が優勝したってよ!」と教えてくれました。
それまで、ボクは浜松商業高校のことについて、なにも知らなかったのですが、父が浪華商業高校の野球部でエースだったから、ボクも父の影響もあって野球が好きだったこと、それに加えて父と同じ商業高校に入ることになれば、勉強でわからないことは父に聞けば教えてもらえると考えて志望校を決めました。
入学後しばらくすると、恐怖の応援練習がボクたちを待ち構えていました。
それが、二年前に野球部が選抜高校野球大会で福井商業高校を下して優勝した時から始まったのかさだかではないのですが、登校するとすぐに三年生の応援団員がクラスルームに入ってきて、応援練習が始まるのです。
遅刻してきた生徒は廊下にて、マンツーマンで指導されていました。
応援団員監視のもと、スピーカーから流れる歌などにあわせて、校歌を唄わされたり、応援歌を唄わせられたり、拍手させられたりしました。
真剣な態度で取り組んでいない生徒には、応援団員から熱血指導が入ったりもしましたよ。
おいおい、志望校の選択を間違えたかな?などと後悔したけれど、その後になりボクの選択は間違っていないことがわかったのです。
その年の夏のことでした。
母校の野球部が、静岡県の夏の高校野球大会で優勝して、甲子園行きの切符を手にしたのでした。
「ああ、これであの応援練習が無駄にならずにすむ」
そんなことを考えていたら、今度は次の困難が待ち受けていたのでした。
それは、野球部の一回戦の試合の日と、所属していた物理部の合宿(愛知県の離島へ行って、星の観察をする日)が重なってしまったのです。
「合宿なんか、日を変えればいいじゃないですか」
物理部部長に、そのように言うと
「チャーターした船もあるから、変えることはできない」との答えが帰ってきました。
「頼むから、一回戦は突破してくれよ!」
いままで、神に祈ったことなどなかったボクも、この時だけは神様の力を借りてでも母校野球部の勝利を祈りましたよ。
想いは通じました!
野球部は勝ちましたよ。
おかげさまで、ボクは二回戦、三回戦の試合を甲子園で応援することができました。
でも、三年生が応援もせずに「かちわり氷」を買って食べながら、観戦していたので、ボクたちも「かちわり氷」を買って食べながら応援しました。
四回戦の時、ボクは高熱をだして応援に行けませんでしたか、連戦になるというので応援に行った生徒たちは関西の旅館に泊まり、次の試合の応援に行ったらしいのです。
そして次の試合で、母校は敗退するのですが、その相手高校(瀬田工業高校)の投手は、その後「日本ハムファイターズ」でエースとして活躍することになる「西崎幸広」さんで、その当時から最速140キロのストレートを投げていたということでした。
甲子園へ行けたことは、ボクの宝物になりました。
ありがとう
野球部のみなさん