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最後の自己紹介?

自己紹介として書くのが、これで幾度目になるのかをカウントしてはいないけど、いままでに書いてこなかった過去におきたことや、それに対する行政の人たちなどが取った行動、そしてボクの本音も交えて、赤裸々に綴ろうと思う。

よければ、感想などをコメントしていただけたら、それをもとに自分でもいろいろと考えてみようと思います。
よろしくお願いしますね。


それが何年前に始まったことなのか?

はっきりとは覚えてはいないが、事の起こりは地主から「新しい建物を建てるから立ち退いてくれ」と言われたことから始まったようにおもう。

連帯保証人がいないから、次に住む場所がなかなか見つからなくて、従兄弟に相談したら「市役所に聞いてみたら、どうか?」とアドバイスを受けたので、市役所に行くと、いくつかの物件があり足が悪かった父のことを考えて、ボクはお風呂に補助設備が付いている場所を選択した。

が、「一人で引っ越し準備はするなよ!」と口が酸っぱくなるほど言い聞かせたハズの父が、ボクの外出中に一人で引っ越し準備をして、熱中症になり倒れ、頸椎を強打して両手・両足が自分の意思で自由に動かせなくなり、病院へ緊急入院することになった。

だから、新たな住居での新生活はボク一人で始めなくてはならなくなり、世間の常識を知らないボクは借金を作るようになっていったのである。

父の入院で父からの干渉がなくなり、母が認知症になって以来の苦しみの呪縛から逃れられたけれど、今度は新たな住居での苦しみが待ち受けていたのだ。

そこはマンション型のアパートで5階建てであったが、三階から下は障害者か外人が住むようになっていた。

ボクの部屋は一階の一番東側にあったが、夜になると外人が部屋のすぐ傍で大声で三時間くらい話し合いを続けたり、昼は昼で五階にすむ家族の幼稚園児が、ボクの暮らす部屋の外壁に大きな石を投げつけたりしていた。

引っ越ししてから、仕事を探さずにいたことを気に入らなかったらしいアパートの古株が集団での嫌がらせをさせていたらしいのだ。

アパートでは月に一回の割合で、住人全員でアパートのまわりの掃除をすることになっていたが、ある時に「そろそろ許してやるか」という言葉を、その古株が言ったということはやはりボクは標的にされていたということだったのだ。

「自由きままに遊んでいる」と評価されたのかしらないけど、わがままな父のせいでボクがこれまでどれだけ苦しい想いをして生きてきたかなど理解されるハズもないから、ボクもそれらの行為に対しては、何も
行動はとらなかった。


生活保護を受けていて、借金まで作ってしまったのでお金に困ってしまっていて、ある日隣の部屋の古株の部屋の郵便受けに新品の電子タバコとメッセージを書いた紙を入れた。

「お金がないから電子タバコを買ってくれませんか?」と書いたのに、電子タバコを返してもらえず、お金ももらえなかったから「電子タバコを返すか、お金をくれ」と書いた紙を古株の部屋の郵便受けに投函したら、翌日地元の警察から呼び出しをくらった。

世間知らずゆえ警察で指導されたが、そのあと病院で精神鑑定を受けて、その結果佐鳴湖病院(神経科)に入院させられてしまった。

元々、父から譲り受けた統合失調症(当時は精神分裂病と呼ばれていた)の種は植え付けられていたのだか、初めての就職で東京で生活を始めたときに嫌がらせを受け、耐えられなくなって発症してしまい、それ以来佐鳴湖病院の支店である元城診療所に通い続けていたから、精神鑑定した医師も
簡単に判断したのだろうとボクは推測するのだ。

元城診療所でもボクは院長に薬を限界まで盛られていたときがあり、そのときは首が斜頸になっていた。

病院に入院するということになり、持っていく物をチョイスしたが、病院で年配の看護師さんに言われたのが「私は長年看護師をしてるけど、花を持って入院してきたのは、あなたが初めてよ!」だった。

神経科の病院では病状のひどい患者のせいで、かなり苦しい生活をさせられたが看護師さんや介助人・作業療法士さんなどの優しさに助けられて、なんとか退院することができたのだ。

でも、入院中に父が死んだために、アパートから転居させられる羽目になり、入院中ゆえアパートへもいけないから、おまかせしたら「天竜区の人から必要なものを選択してくれ、段ボール1個に入るだけしか保管できないから…。」と言われ、ボクは「CDウォークマン」と「WINDOWS7」を選択したが、それ以外に部屋にあった家具から洋服から布団まで、ほとんどすべてのものを処分されてしまったのだ。

そのなかには、知人の電話帳も含まれていたから、大阪にすむ従兄弟の電話番号もわからなくなってしまって、いまは個人情報の問題もあるから調べられず、疎遠になってしまった。


帰る場所がなくなったから、ボクは区分三以上の障害者が暮らす浜松市西区のグループホームで暮らすことに決めた。

見学として、アパートのような所にも行ったが空きがなく、一刻も早く退院したかったから、そこにしたけどそこでも苦労が耐えなかったのである。

外出できる時間は、朝の六時から夕方の六時まで、朝と晩にはお金を払って食事を用意してもらっていたが、ご飯がお茶碗一杯だけだった。

でも、そのグループホームのサービス管理者さんが本社に相談してくれて、夜は十時まで外出してもよくなり、食事もお茶碗二杯ぶん食べてよいことになった。

そこのグループホームは、ボクが入ったのは二番目だったが、定員十名の内訳は「重度障害者」一名・「車椅子使用者」二名・「全盲で統合失調症」一名・「知的障害者」二名(ひとりは発達障害)・そしてボクを含め軽度障害者が数名だった。

ボクは入所一ヶ月目から就労支援B型の作業所に通い始めたが、毎日朝から重度障害者が部屋の前の通路をクロックスを履いてバタバタと十往復もしていたから、嫌な気分で仕事に行き、帰れば帰ったでみんなで飲むために用意してある麦茶を知的障害者がすべて飲み干してしまうから、いつもなま暖かい麦茶しか飲めなかった。

それよりなにより大変だったのは、行政から金銭管理を受けなさいという指導があったので受けていたのだが、借金を返すことを最優先としていたから、昼食代としてもらっていたのは三百円だけだったことだ。

通っていた作業所のボスは女性ながら親分肌で、優しくて好感の持てる人だったし、その人以外の上司もほとんど女性だったが、皆さん親切な人ばかりだったから、作業所に行くのが楽しくてたまらなかった。

一緒に作業する仲間も、人を悪く言う人は一人もいなかったから、ボクはのびのびと作業に励むことが出来たのだ。

だがそこに在籍したのは四~五か月の間だけだった。

なぜ、そんな短期間で退所することになってしまったかというと、グループホームでの人間関係で疲れてしまったからであった。

グループホームには、世話人という人が毎日入れ替わりで、数名勤務していたがボクはその人たちの話し相手にもなっていて、苦情を聞いて励ましたりもしていたけど、グループホーム側が求人情報誌に掲載する条件と現実のあまりの違いに、世話人さんたちは怒っていて、いつもボクは世話人さんたちを慰めていたのだ。

グループホームの二階には、女性の障害者が暮らしていたが、その中の一人が夜に狂言自殺を計ったこともあった。

そのときに、わずかな音に反応して目覚めたボクは、狂言自殺を企んだ女性が世話人ともめている現場に行き、なだめてあげたりもしたのだ。

ひとつ問題が解決すると、また違う問題が発生するグループホーム。

金銭管理で苦しい生活。

それらに耐えられなくなって、グループホームを抜け出したことが二回あり、二回目には再度佐鳴湖病院に再入院することになった。

また、退院後の行き先が決まらず、長く入院することになった。

そして次に暮らすことになったのが、南区だったのである。

そこでも一悶着あったが、あえてそれは書かないでおこうとおもう。


ただ、書きたいのは、行政にしても、ボクに関わる知人にしても、何もボクのことを知りもしないのに、自分のなかの正義を振りかざして色々ともの申してくるという自分勝手な態度が許せないということなのだ。

すべてを調べた上で、本当にボクのことを心配してくれての発言なら、素直に耳を傾けるが、そうでない場合はボクは適当にあしらってきたし、これからもそうしていくつもりである。

外見や多少仕入れたボクの過去から、ボクを評価する人の意見は聞くに耐えないから、垂れながしにしておくつもりなのである。

ボクはnoteの中に親友がたくさんいると信じているし、富士山GoGoエフエムをはじめとするラジオ局の人もボクの意見に真剣に向かい合ってくれる。

お世話になった天竜区役所の人か言っていたが、これからはすべて自己責任なのだから、みなさんにお世話になりながら精一杯頑張っていこうとおもっている。


入院生活が長く世間知らずゆえ知らぬことも多い『現代版浦島太郎』のようなやつですが、これからもよろしくお願いいたします。


長くなったけど、つきあってくださってありがとうございました。


それでは終わりにします。


おまえ

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おまえ
ブルーライト浴びすぎてないですか? ファミコン1日1時間、パソコン1日好きなだけといいます。 そんなに書けないけど・・・また読んでください。

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