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家族・仲間、それは敵にも...。

ボクが第1次アニメ世代なのか知らないけどマジンガーZなどを楽しんで勧善懲悪なアニメを多く観ていたボクに衝撃を与えたのが、友だちから推薦させられた「無敵超人ザンボット3」でした。

「皆殺しの富野」というアダナでも呼ばれた「富野由悠季」監督が名古屋テレビで監督として作り上げたロボットアニメ3部作品の第一段での最終決戦の時には主人公の親や仲間などが次々と戦死していって生き残ったのはほぼゼロに等しいという結末でしたからね。

日本で1番深い駿河湾に空母を隠したり、若い人がメカの操作にむいているからと学習睡眠でメカの操作方法を覚えさせたりと設定にも拘りが見受けられました。

三作目の「機動戦士ガンダム」の小説では主人公である「アムロ・レイ」は最終決戦に参加できずに戦死して、ニュータイプに目覚めた「カイ・シデン」が合同軍の指揮をとって敵の本陣へと向かう場面で終わりになります。

視聴率が良かったからなのか小説のように「アムロ・レイ」を殺さないで前2作とは違い全43話で番組が終わったのも(1年なら52話になるハズ)「アムロ・レイ」が死ななかったのも、次回の機動戦士Zガンダムへの布石だったようです。

機動戦士ガンダムでは敵国である「ザビ家」を応援する人もいたようですね。

映画版を観に行った時に並んで映画館が開くのをいると「ガルマ・ザビ」が戦死した後に「ギレン・ザビ」が追悼の演説をする時に「一緒にジーク・ジオンと叫んでくれ」と頼まれましたが、お断りしたボクも「その後しばらくして敵や味方のどちらにも家族や仲間がいること」に気づかされましたよ。

「ザンボット3」の場合は敵ではなく、愚かな人類がいるからこそ「人類を滅ぼすのが目的」でメカが人たちを襲うのですが、敵の総大将は単なるコンピュータであり、組み込まれた指令を遂行したに過ぎなかったのでした。

商業主義が嫌いなボクですが、プラモデルでは、その後にアニメとして登場した「ダンイン」のプラモデルにはシビレました。

よくボクが書く「機動戦士ガンダムはWゼータで終わっている。」というのも商業化の影響を受けすぎているからなのです。

ガンダムと名前に付ければ「そのネームバリューで人気を得られる」と考えられているから嫌いなのです。

基本的にガンダムの形態から派生した形だし、ストーリー的にも真新しい部分が見当たらないものが多いとボクには思えますから。

第一作目から名古屋テレビからの命令なのかメカの形が変形するものが多く登場した名古屋テレビの三部作。

二作目の「無敵鋼人ダイターン3」ではロボット形態・飛行形態・戦車形態へと変化するようにできていても、その頃は認知度が低かったがゆえに取り上げてもらえなかったのです。

主人公が乗るメカで商業主義に煽られて改造されたのが「闘将ダイモス」と「勇者王ガオガイガー」ではないかとと思いいます。

両方のメカには放送開始時には特別な武器はついていなくて動きで敵を倒していたのですが、人気がでないのとプラモデルなどにするときのために「ダイモス」では「ダブルブリザード」や「ファイヤーブリザード」などが取りつけられましたし「ガオガイガー」でも「ゴルディオンハンマー」などが取り付けられましたしね。

高校生の頃に「機動戦士ガンダム」を観ることになったボクたち世代の子どもでも知っているガンダムは、どのような影響を与えているのでしょうか?

声優になりたがる人が多いらしいけど、それはボクたちが歌手になりたがる人が多かったのと同じようにボクは感じます。

戦争を知らなくてロボットアニメが好きな子どもは減らないのかもしれませんね。

戦士にも親や子どもがいるということを考えたなら、片方からしか考えない戦争アニメ制作に反対だということを言う人が増えてほしいものですけどね。



ブルーライト浴びすぎてないですか? ファミコン1日1時間、パソコン1日好きなだけといいます。 そんなに書けないけど・・・また読んでください。