どうなることやら。
ボクの中にあるのは、父と母の遺伝子。
むかしから母に「あんたは、お父さんと一緒で情けないね」と言われた。
「私がお父さんで、お父さんがお母さんだったらよかったね」
「お父さんは、あんたに甘すぎる。私はあんたにお金を上げたくない」
「普通の家はお父さんは、お金を渡さなくて
お母さんが内緒で渡すけど、うちは逆」ともよく言った。
父は元・波商のエース。
体はがっちりとしていたが、自分がこうと決めたら・・・のタイプ。
なかなか人の意見は聞き入れなかった。
あまり食べなくても、大丈夫な人で、むかしは優しかった。
字も上手く、機械商のおじいさんの影響で機械にも詳しかった。
お兄さんが、財産を「芸者遊び」で使い果たしたから
親の為に家を建て、親を大切にあつかった。
が、戦争に行って、捕虜になりシベリアで暮らし
結婚しても、ボクが障害を持って生まれ
ボクがあるときから、人生を捨てたから
父も耐えることをやめ、本来もちあわせた自己中心な性格になった。
年齢的にも、限界だったのかもしれない。
スポーツが好きで、ルールがわからずともラグビーまで見ていた。
マラソンが好きだったのは、頑張る人を応援したかったのか?
若い頃に中耳炎になり、ほっておいたから難聴になり
年をとってますますひどくなっていった。
ボクと42歳年が離れていたから、ボクが思春期を迎える頃には
頑固な考えが前面に出ていて、何度も言い争った。
野球で「振り逃げ」があるが、「食い逃げ」と間違って覚えたのも
若い頃から難聴だったせいだ。
母が認知症になり、苦しかったのだろう。
もう疲れ果てていたのかもしれない。
「万引き」で2回捕まった。
ボクが迎えに行っても、終始無言だった。
さすがに2回目にはボクも
「お母さんが認知症になったからって・・・」と怒ったが
反省の色も薄かったようだった。
母は母でボクが障害を持って生まれ、初対面のときに泣いたと
父は言っていたが、母を慰めることをしたかは不明だ。
ボクは、たぶんそこまではしなかっただろうと思う。
ボクの障害について父は運が悪かったと諦めていた。
が、母は姑・姑の嫁に対する態度が原因と思っていた。
それでも、自分にも非があると考えていたから
ボクが中学のときに「何でこんな指になの?」とたずねたら
泣き出してしまったくらいだ。
父は親に対しては、優しい人だったが
妻に対しては、むかしの人だから「言うことを聞け」のように接した。
母が仕事を持っていても、家庭が第一のようにさせてたし
ちょっとしたことでも呼びつけていた。
母は何かあると「私は家政婦じゃない」とボクに言っていたくらいだ。
そこは、母が亡くなってもあい変わらずで、今度はボクにそれを望んだ。
が、ボクは同じ血を引いているから、断固従わなかった。
「94歳の父親の言うこと食らい聞けよ。」などと言われても
嫌なものは嫌だったから、最低限のことだけしかしなかった。
野球部のエースも「切り札」をいきなり使うようになってしまっていた。
それでも「毎日お鍋が食べたい」と言えば作ったし
右手のせいでできないこと意外は、ほとんど望みを叶えた。
次から次へと欲を出したから、ボクもいい加減に対応した。
統合失調症のせいもあり、引越しのときも
「これを誰々にあげてこい」と言いまくり、ボクは従ったが
いまどきの人は「新品」ならまだしも、「中古品」をもらいたがらない。
それを説明しても、同じことを繰り返して言い
ボクがパチンコへ言ってる間に準備をしていて、転倒して頚椎を損傷し
両手・両足が自由に動かせなくなった。
「人の心も理解できず、わがままを繰り返したあげくの自滅」
ボクはそう考えている、ボクはわがままかも知れぬ、父のように・・・
母が亡くなり、父の残りの人生は老人ホーム暮らし。
一人残ったボクはいま人生をやり直しにかかっている。
もしかしたらボクはサラブレッドなのかもしれない。
ただ環境が悪すぎた、だけなのかもしれない・・・
書いてきたように、父も母も「ある意味立派な人」であったから・・・
さて、これから「どうなることやら・・・」
ブルーライト浴びすぎてないですか? ファミコン1日1時間、パソコン1日好きなだけといいます。 そんなに書けないけど・・・また読んでください。