父
子供の頃は父とうまくやれていたのだが、いつの日からか、父のことを嫌うようになっていってしまった。
ボクの記憶にある自らの幼少期は幼稚園のころからだが、父との思い出は小学生の頃からのものである。
父はテレビが大好きでありスポーツの中継や政治の番組をメインに観ていた。
ナイター中継される日は必ず観ていたのは、若い頃に浪速商業高校の野球部でエースだったからだろう。
でも、父の頃の野球とは違い、変化球の種類も増えていて、一年を通した勝負という考えが浸透していた時代だったので、毎回試合に勝つことを望む父にとっては、歯痒い想いをしながらの観戦だったと思う。
大阪で生まれ育った父が、中日ドラゴンズ(と阪急ブレーブス)を応援していたのは、ボクが応援していたからに違いない。
日曜日になると、父はスクーターの後ろにボクを乗せて数キロ先の川へ鮒釣りに出掛けていた。
釣り上げた魚は、家に持ち帰り庭にある池に放った。
母が忙しくない時には、母に料理してもらい、夕食のおかずにしてくれた。
ボクが中学生になると、父は日曜日にはパチンコ屋によく行くようになった。
それは高校生になっても変わることはなく、家での父は子育ても母に任せていた。
就職が決まり、東京へ行くことを父に告げると父は「親を置いていくのか?」と涙を流しながら言った。
行政Bという試験に合格したが社会保険庁からしか誘いがなく、せっかく受かったものをふいにしたくなかったから、ボクは父の涙に負けず東京行きを決めた。
父も理解してくれたらしく東京へ行くときには荷物を車に乗せて、家族を乗せて運転して行ってくれた。
母の期待に答えられず、わずか3ヶ月で帰郷したボクは都会での生活のせいで統合失調症を発症し、仕事に就くことが出来なくなっていた。
父は障害者を雇用する作業所に転職し、家に職場で働く障害者を連れてきてくれたこともあったが、ボクは心を閉ざしていたから、それは徒労に終わった。
その事が父を変えるきっかけとなってしまったのか、そのしばらく後に父からこう言われたのだ。
「おまえはもう働かなくてもいい。食わしてやるし遊ぶ金もやる。だから俺の言うことを聞いていろ。」
後になり分かったことだが、神経科の院長は限界量ギリギリの量の薬をボクに処方していたのだ。
そのせいでボクの首は斜めに傾いてしまい、就職活動にも多大な影響を与えていたのである。
自分の性格も災いしたからか、長いこと仕事に就くこともなく、家族関係も良好とはいえないなかで暮らしていたが、そんななかで母がまだらボケになり、特別養護老人ホームへの入所をさせるしかなくなった。
父の受けたダメージは計り知れなかったが面会にも、ろくに行かなかったし、葬式にも参列しなかった。
数年後、地主から立ち退きを告げられ、連帯保証人もいなかったがボクは何とか引っ越し先を探した。
引っ越し準備を一人でやらないでくれと言ったボクの言葉を軽視した父は、準備の最中に熱中症で倒れ脛椎を強打し、偶然通りかかった人の助けで医療センターへと緊急入院した。
自分の意思では両手両足を動かせなくなり、亡くなるまでの数年の間、外にでることもなかった。
父も統合失調症であった。
いつ発症したのだろう。
でも父は祖父が稼いだお金を芸者遊びで使いきってしまった伯父さんを恨んではいたが、戦争でロシアに抑留されていたあと故郷である日本に戻り、両親のために家を建てるまで働いたし、親には逆らいはしなかったということらしい。
若い頃から、耳が遠かった父のせいでボクも母も苦労させられ続けた。
アメリカが、西部劇が、野球が、相撲が好きだった。
昔、父がボクに言った言葉を忘れずに覚えている。
「いつか補聴器を、おまえが買ってくれるよな!」
ごめん、買えなかった。