オリンピックのレガシー〜東京2020組織委員会の遺言〜
2022年6月30日を以って、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会が解散した。コロナ禍により一年延期という五輪史上初の経験を刻んだ運営母体がその終わりを迎えた。総ページ数627に纏められた大会公式報告書は橋本組織委会長の「東京2020大会のレガシーの一つは人だと思う」に総括せざるを得ないものであった。なぜなら、この大会の意義は「オリンピックを開催した」ことに尽きるからだ。
古代ギリシアで戦禍と疫病に苦しむ状況を救うべくデルフォイの神託に問うた答えが「4年に一度の競技会」であった。もしこの神託を信ずるならば、オリンピック開催こそがコロナ克服の戦略であった。2020年にその決心ができていたらどうだったか?は歴史にIFはないので、記述はしないが、それぞれ答えを出しても良い仮定法ではあると思う。いずれにしろ「一年延期」という形であったが、「オリンピックを開催した」ことが神託への信仰表明となった。
開催するために払われた努力については、報告書を解読し、じっくり分析するべきことだが、少なくとも様々な犠牲を払いながら、大会を開催したことによって、それを「定数」として、オリンピック開催運営の「変数」を計算することが可能になる。解散同日、読売テレビ「ミヤネ屋」に出演して「東京2020のレガシーは開催したことに尽きる」と言ったのはそういう意味であった。(宮根氏は皮肉に聞こえると言われたが)
実際に開催運営を担った現場からは、様々な悲鳴が聞こえてきたし、その悲鳴の根本を探っていけば、この東京2020が抱えていた問題点が浮き彫りにされるだろう。それが変数の部分である。これについては後日、筆を起こすつもりだ。
同じ「ミヤネ屋」で問題とされた大会経費1兆4238億円については、番組内で分析を進めていく中で、面白い結論に至った。私自身、宮根氏に語りながら、自ら腑に落ちるという経験をした。なかなかないことなので、記しておきたい。確かに1兆4238億円は、大会招致時の7340億円のほぼ二倍である。しかし、そのうち、大会組織委員会が負担する6404億円については、オリンピックマーケティングなど五輪独自の自助努力で得た収入によって賄われている。そこで、都が負担する5965億円と国が負担する1869億円の合計は7834億円となる。これは、招致時の7340億円とは494億円の差となる。立候補した時に覚悟した7340億円との差としての494億円をステークホルダーとしてどう考えるか?それが提起される問題と見ることができる。招致時に都民、国民は五輪からの収入は期待していなかったはずだからだ。
札幌冬季五輪招致に置き換えると大会運営費2000億から2200億円が民間資金で賄われる予算になり、施設整備の800億円が市と国が負担する金額になる。800億円は、札幌市が所有する施設の更新改修で、札幌市が実施し、現行制度に基づいて、国の交付金等を活用していくことも想定しており、実質負担額は約450億円と試算されている。東京2020に当てはめると7834億円が800億円に相当する(国が350億円、都が450億円)ということ。この場合の問題は、スポーンサーシップとライセンシングなどの五輪マーケティング収入が想定される金額に届くのか?である。札幌はそのために市民の絶対的開催意思を問われている。それがスポンサーシップのミニマムギャランティである。
東京五輪のレガシーは「開催したこと」に尽きるが、五輪を契機に新設された7つの施設は果たして文字通りの遺産となるのか?このテーマになると日本のメディアはこぞって過去のオリンピック施設で廃墟となった施設の映像を流す。実際、「ミヤネ屋」でもリオ五輪時にオリンピックスタジアムとして改修されたマラカナンスタジアムの荒廃ぶりが映し出されたが、これは2017年当時の映像であり、現在は完璧に復旧されている。ことほど左様に負の要素を報ずるメディアのおかげで、我々の常識も五輪後の施設利用がなされていない印象をもっている。しかし事実は逆であった。
国際オリンピック委員会(IOC)のレガシー、コーポレート、サステナブル局が1896年のアテネ大会から2018年平昌大会までの全施設について、調べ上げて纏めた。その結果を今年5月のIOC総会で発表している。それには私自身も驚いたが、85%の施設が今もなお利用されているというのだ。20世紀前半の五輪の施設は71%、中間は82%、後半は90%がまだ利用されている。そして2000年シドニー以降になると92%が利用されているのである。51のオリンピック競技大会において、常設された817の競技施設と106の仮設施設について調べ上げた結果である。
メディアの偏った報道が私たちの意識を扇動し、一つの虚構を作り、その虚構が空気となってしまう日本社会においては、オリンピックへの否定的な見方は広がり安かった。昨年の今頃、私はメディアで一人、五輪開催を主張し続けたが、コロナ禍で五輪開催を否定する意見が、ニューヨークタイムズやワシントンポストに登場するとそれが大きく取り上げられて、絶対的正論となる。権威あると日本人が思っているメディアの主張は絶対化され、その空気を読まない発言は拒絶される。その結果、オリンピック反対が空気となっていった。オリンピックについては、IOCにも当然批判すべき点があるが、オリンピックに全ての責任を負わせ、それで全て解決させようというのでは本質を見失うだけだろう。私は「水をさす」者にならざるを得なかった。
東京五輪直前に行われたイプソス(グローバル市場調査委会社)の調査で、「東京五輪開催すべき」は、トルコ71%、サウジ66%、ロシア61%、ポーランド60%、米国でさえ52%。しかし、日本ではわずか22%だった。
その状況でもデルフォイの神託を信じて五輪開催を成し遂げた縁の下の力持ちたちに敬意を捧げる次第である。そのおかげで、東京2020を振り返ることができるのだから。
「開催したこと、それがレガシー」なのだから。
2022年7月3日
明日香 羊