スポーツ思考から 「墨子とオリンピズム」
オリンピズムは墨子から思考するとよくわかる気がする。理想と現実
の論点からだ。
春秋戦国時代の中国は戦争に明け暮れていたそうだ。日常が戦場であ
る日々は日本人が想像するに難い世界だ。わが父が太平洋戦争でトラ
ック島で戦っていた頃、わが母が女学校の授業が縫製作業になり、工
場に通う日々を送っていた頃、そして米軍による空襲が始まった頃、
その日常がもし550年も続くと想像したらどうか?
その中で「自分を愛するように他人を愛せ」と唱える人がいても、誰
も耳を傾けようとしないだろう。しかしそのような状況の中で、墨子
は「非攻」「兼愛」を本気で唱えたのだ。
彼の思想には誰も見向きもしなかったと言うが、墨子はそれを気にせ
ず理想を説いた。平和を唱える者は多い。しかし、唱えるだけで何も
しない者ばかりだ。墨子は攻められている城を守るという戦術を作り、
実践して、現実に平和を作った。70戦無敗という結果を残した。
王たちは彼の戦争技術を高く評価して彼を重宝するが、彼の理想は戦
争を無くすことであった。彼の300人と言われる弟子は墨子についてき
たが、それは彼の高度な戦争技術の故であり、兼愛の思想を理解し、
信ずる故ではなかった。わずか、2名の弟子が彼を理解したが、墨子は
それで充分であった。
彼は自らの理想を信じ、それが受け入れられない現実を気にかけず、
小国を大国から守るという実践によって一時的でも平和を作っていく。
この話を学び、思い浮かべるのがオリンピズムである。
1896年、第一回オリンピックがアテネで開催されて以来、五輪は平和
構築を目指して進んできた。しかし、識者は言う「一度も世界平和は
実現していない」「オリンピックは平和に貢献しているのか?」「ス
ポーツで平和は綺麗ごとに過ぎない」
しかし、オリンピックを開催すること、四年に一度の頂点を求めて自
らの肉体と心を鍛えて、あらゆる垣根を超えて集まる若人が参加する
ことが、平和を志向する希望を具現化している。それは、墨子が戦略
と戦術を駆使して完ぺきな防御を実現したことと相似する。
戦争反対と言うが、平和構築のための手段を実践することのない平和
主義者との違いがそこにある。
オリンピックは理想を求める。世界中の選手が政治、宗教、国境、人
種を超えて参集する。その在り方を世界中の政治的指導者も賛辞し、祝
う状況が成立すれば、それは一時的であっても平和を実現していると
言えないだろうか?
現実に中国が米国とやりあっていても、ロシアがウクライナ侵攻の素
振りを見せていても、シリアの内戦に灯りが見えなくとも。理想は、若
人がすべてを超えて世界中から集まり、自らの鍛錬の成果を同じルール
の下に競うあり方が休戦を実現し、その先に平和の灯を見る機会とする
のではないか?!
墨子が生きていた時代には戦争は終わることはなかった。しかし彼の
死後、墨子の教えは弟子たちの集団に継承され、完ぺきな防衛隊がで
き、戦国時代の終わりに貢献した。兼愛の思想は生きて平和の思想に
繋がっていると言えるのではないか。
同様に今、北京五輪は政治家のボイコットに揺れているように見えるの
だが、選手のパフォーマンスが世界に感動を与えるとき、人々は中国の
偉大さではなく、人間と人間が認め合う偉大さを感じるだろう。それが
平和への灯となるのである。
陸上100メートルで世界一の走りを見せることができる実力は、墨子
が大国から小国を守ってみせる器量と同様に決定的に「現実的」である。
オリンピズムが単なる理想ではないというのはそういうことであろう。
故に人権問題を盾に北京五輪をボイコットするのは、木を見て森を見ず
であり、明らかに平和への一歩を阻害するものである。
(敬称略)
2022年1月12日
明日香 羊