パリ五輪を理解しないと日本はおいてきぼりにされる〜オリンピックをおいてきぼりにした日本へのブーメラン〜
オリンピックの招待状は大会開会式の1年前に発送される。7月26日、パリの組織委本部にバッハIOC会長が臨席し招待状発送セレモニーが厳かに執り行われた。206の国内オリンピック委員会(NOC)の内、資格停止状況にあるグアテマラNOC、そしてオリンピック休戦を破った国のNOCであるロシアとベラルーシのNOCには招待状は発送されなかった。
前回の五輪開催地のNOCである日本オリンピック委員会(JOC)の会長である山下泰裕はバッハからサインしたての招待状を受け取った。オリンピック発祥の地であるギリシアのNOC会長、北京冬季五輪を開催した中国NOC、来るべきミラノコルチナ冬季五輪を開催するイタリアNOC、2028年のロス夏季五輪を開催する米国NOC、2032年のブリスベン夏季五輪を開催する豪州NOC、2026年ダッカでのユース五輪を開催するセネガルNOC、パリ五輪を開催するフランスNOCそして難民選手団の代表にも一枚一枚サインをしてバッハが直接招待状を渡すというセレモニーが淡々と続いた。
かつてJOCに在職していた頃、五輪一年前に届く招待状は航空便だったが、在日大使館が届けたこともあったかもしれない。そして、そこから事務局は選手団編成とエントリーの準備に本腰を入れるのであった。招待状はセレモニーだが、それは最終エントリーという五輪参加権を勝ち取るスポーツ外交開始のホイッスルでもある。
山下に笑顔でバッハは招待状を渡したが、パリ五輪があと一年に迫った日本の状況は心許ない。東京五輪に用意された潤沢な強化費が減少したことが最初に取り上げられるが、それよりももっと深層で日本のスポーツ界が世界からおいてきぼりにされそうなことを憂慮する。それは日本スポーツ界というより日本社会が根本的に抱えている問題に無関心であることが原因である。
東京五輪2020で汚職が起きた。五輪は商業主義に陥っている。平和に祭典などとは有名無実。札幌五輪なんてとんでもない。税金の無駄遣いだ。この論理展開は短絡的であるが、故にこそ世論を作りやすい。しかし、世界は別の方向で動いているとも見える。そのことに目を向けてみる。
次世代の五輪のためにIOCが改革項目を掲げたアジェンダ2020の20+20=40項目を2020年の東京大会で成し遂げるはずだった。しかし、コロナがやってきて、さまざまな制限の中での開催となったためにその目標は100%の達成に至らなかったのだ。それで、バッハは2021年3月のIOC総会でアジェンダ2020は85%達成できたが、コロナという前代未聞の疫病のように今後予期せぬ事態が起こることも踏まえて、新たにアジェンダ2020+5を提言して、2025年までの改革目標としたのだった。プラス5はパンデミック状況があったとしてもさらにサスティナブルな五輪にするための5項目であると見る。
東京2020でアジェンダ2020を履行できていれば、それが日本社会の構造自体に自覚を促せるチャンスがあったのだが、その部分はコロナ対策という建前に翻弄されて喪失してしまった。東京五輪は日本を進化させることができなかったのだ。
招待状セレモニーでのバッハのスピーチを聞き、パリ五輪のアピールが徐々に始まると、まさにパリ五輪こそ新時代の五輪になるのだ!というIOCの意気込みが伝わってくるのであった。「さらにインクルーシブで、より若く、より都市的で、より持続可能なオリンピックが実現する」というのである。
前回のパリ五輪は1924年、ちょうど100年前だが、実はこのオリンピックは創始者クーベルタンがIOC会長となって初めて自国で開催する五輪であり、彼のスワンソング(有終の美)となるべき大会であった。そして、その前大会は1920年アントワープで、第一次世界大戦の戦禍が残る中での開催であった。そこで想起するのは東京2020であり、これは疫病の影響を受けつつもやっとの思いで開催した大会であり、それを乗り越えてやってくるのが2024年のパリ大会であり、まさにバッハのスワンソングになるのかも知れないのだ。思えば、バッハはオリンピックモットーという五輪三種の神器の一つを革新してより速く、より強く、より高くに、「共に」を付けた。その時、自らが創始者と「共に」あることを実感したのではないだろうか?(共には世界の皆が共にの意味だが)
ある意味、アントワープも東京も戦争や疫病を背負って地味な役回りを演じ、二つのパリ五輪に尽くしただけの大会なのかも知れない。そんなことをどこか遣る瀬無い気持ちを抱えながら思ったりするのであった。パリが近代五輪発祥の地(1894年ソルボンヌでIOCが設立された)であることは揺るぎなき真実であるからパリが輝くのは仕方がないが。
パリ五輪が実現しようとしていることの前提にはESGを目指した在り方がある。E地球環境問題、S社会貢献、G健全管理が意識されている。バッハのスピーチから拾えば、「最小限の建設事業。95%が既存施設と仮設、CO2排出を2012ロンドン、2016リオの50%削減、男女参加者数が完全同数(5250名+5250名=10500名で、アジェンダ2020の提言9−1にピッタリの数字だ)、パリのど真ん中での競技開催、観客参加型(正規マラソンコースを一般人4万人が走るなど)」
例えば、競技会場がエッフェル塔、コンコルド広場というのが驚きだが、もっと驚くのはセーヌ川での開会式である。泳げなかった川をパリは数年間の計画で浄化した。東京がお台場で無理矢理オープンウォーターやトライアスロンをやったような無策ぶりを想起する。(もしお台場の海を綺麗にするためにどのように上下水道を改善すればいいか真摯に取り組んでいれば、今頃、お台場海岸は都民憩いの場になっていただろう)五輪がただみるだけでなく参加するものであるという視点から、フランスは小学校の課程に毎日30分のエキササイズを取り入れたという。全国420万人を目標とする。
日本社会がESGにおいて世界標準に達していない現状があることをまず認識しなければならなかった。ジェンダーギャップ指数125位(2023年)の国を変えるのに、森喜朗元東京五輪組織委会長の女性蔑視発言は絶好機だったが、ただ組織委理事に女性が増えただけで、その後の男女平等施策はスポーツ界内でも遅々として進まぬ。国連関係の知人が抜擢されて悪戦苦闘しているが、問題の根源には日本社会の鈍感力がある。
その顕著な表れが、日本のメディアの五輪批判だ。40年前と相も変わらず、五輪は利益のみを追及していると言って非難するだけで、IOCが国際社会と協調し、貢献しようとしているかという根本を一切見ようとしないのである。自己利益のみを追求するために五輪を利用した輩たちの本懐に切り込まないで、天に唾を吐くだけだかから、国民も東京五輪汚職がアクセルとなって、五輪に距離を置くようになっている。
こうしてパリ五輪がやってきた時、日本選手の活躍だけに縋る日本社会は五輪の本流を見失い、「勝った!負けた!」だけの大騒ぎに終始し、さらにメディアがそれを煽れば、元の木阿弥。そしてパリ五輪が終わった時に、日本は国際社会から本当においてきぼりにされているだろう。
なぜならパリ五輪は新時代のオリンピックとして最もインクルーシブで最もサステナブルな社会を提言するからだ。その時、日本社会は自らが招いたオリンピックの無理解に気がつくだろうか?社会にスポーツが適合するのではなく、スポーツが社会を改革していくという哲学がない限り、この方程式は解けることはないだろう。
日本だけがエクスクルーシブとは皮肉なことである。
(敬称略)
2023年8月12日
明日香 羊
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編集好奇
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だからこそ、私は日本からウクライナ五輪2030を提言せよ!と言っているのだ。東京五輪で失ったものを取り戻すために。
緊急提言「2030年ウクライナ冬季五輪の胎動」がゲンダイで連載されました。ご高覧いただければ幸いです。
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