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食べること、不安、恐怖、美味しさ、優先的選択、抵抗

「食べる」という行為は、「肉体の最も原始的、かつ繊細な感覚を通じて、『世界』に触れること」だと考えています。
 
人間は自己の内面世界の充実のために、外界を拡げていく生き物です。内側の世界と外側の世界を隔てるもの。それは「未知なるもの」に対する不安と恐怖です。
 
不安と恐怖を乗り越えて世界(認知)を拡げようとするとき、わたしたちを押してくれる魔法の一つが「おいしさ」だと思うのです。魔法ですから、目には見えません。誰でも使えるわけではありません。誰にでも効果があるわけではありません。本来、実体があるのかもあやふやです。
 
でも、多くのおいしくない体験、おいしさがあるかのように思える体験により、わたしたちはおいしさの存在を感じることができます。その結果、わたしたちは知らない他者とつながったり、外界に対して当事者意識を持ったりできます。
 
ここで忘れてはいけないのは、「おいしさ」とは、食べる(=世界を認識する)という体験の一要素にすぎないということです。「経済」が「文化」のサブカテゴリであることと一緒です。小さな要素が全体を代表するようになると、全体が弱っていきます。
 
ですから、「おいしさ」は料理の本質ではありません。「おいしい」は正義でもありません。そもそも世界の普遍性(=リベラリズム)が失われた現代では、「普遍的なおいしさ」は存在しようがないのです(唯一、そのようなものがあるとすれば、それは「お金になる味」のことでしょう)。この地球で食べ物を作ったり食べたりする行為を常に楽しく、面白く、価値のあるものにし続けてくれるために、「おいしさ」は元の立ち位置に戻るべきなのです。
 
その結果、個人的な、個性的な「味」が世界のあちこちで受容されたり拒否されたりしながら絶えず生成と消滅を繰り返し、結果的に「そこに常においしさが存在するような錯覚」が集積することでしょう。それらは結果的に人々の認知を拡大し、コミュニケーションを促し、政治の力によらず、個別の私的な欲望によって、ひそかに社会をポジティブに変容させることにつながるはずです。
 
現実的で持続可能なおいしさのある、優先的選択への抵抗のための料理。サモトラで食べて、考えて、話しましょう。

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