痛ましい事件事故、スキャンダルのレベルが天元突破した現代日本について
Vtuber黎明期から事業を軌道に乗せるべく頑張り現在のVtuber業界の礎を気づいた人が、とある中国人(と本人が言う)に騙されて、あまりの衝撃に精神を病んだり、自分の制作したコンテンツがメディアミックスの過程で蔑ろにされ、遺書を残してこの世を去ったり、ヤンデレが宿主を探す過程で激しく燃え上がったり、カイジがどうのこうのとか、その前には、芸能界のスキャンダルやら、能登沖で起きた天災やら、割とこの世の大体の災害事件事故がこの1か月ちょっとで立て続けに起きており、なお哀しいことにまだまだいろんなものが漏れ出てくるんじゃないかしらと思う程度には暗澹たる世相の日本でありますが、皆様はお心を強くお持ちでしょうか。
今回は、かなりヘビーな内容を冷徹に考察する内容となりますので、そういうのが苦手な方はここでブラウザバックするなり、ブラウザを閉じるなり、ご機嫌なYoutubeを見るなりしてください。面白半分で続きを見ると心に傷を負う可能性があります。
というのも、この一か月で報道されたりSNS上で拡散したりした内容について、各方面でコメントを書き散らしていたのですが、そのたびに生と死と現世とのつながりみたいなことをいろいろと考えることがありつつ、今回はその考察を書きとどめておこうと思ったからです。
故に自分が備忘録的に書きとどめている考察の保存場所がたまたまnoteであり、非公開にしても良いやと思いつつ、それでも自分のこのオナニー文章が何かの琴線と言わないまでも何かの役にたったりしないかなという下世話な下心を伴なったために、ここに書きとどめたに過ぎないということをいったん心にとどめていただければと思います。
死ぬということはどういうことか
幸い私はまだこの世、現世に生を許されておりますので本当のことはわかりかねるのですが、とはいえ、現時点での私の認識は「生きる理由があるから生きているのだ」ということです。つまり逆説的に「死ぬ」とは究極的に考えると「生きるための理由がなくなったから」ということです。「理由」というのは、いわゆる「現世とのつながりを担う何か」ということです。
災害にしろ、自殺にしろ、事件事故にしろ、そこに彼ら僕らがいたというのは理由があります。100年に一度の大災害であっても、命を助かった人、そうでない人が分かれました。自殺についても、友人知人親戚から自殺者が出たという人もいれば、私の周りの人はみんなハッピースマイル100%っていう人もいるかと思います。
一口にめぐり合わせと言ってしまえばこれほど残酷な話はないようにも思えますが、災害にしても、そこに住むようになったいきさつが必ずありますし、自殺された方もそれをその身を投げ出してでも止める人がいなかった、ということですし、理由なく人を殺そうという人も結局「誰でもいいから殺したかった」という動機があるわけで、社会的背景や殺人に至った経緯というものがあるわけです。
ですので、現世とのつながりを担う何かが何かによって絶たれた、という結果が死ぬということなんだろうと思います。
「感動ポルノ」について
「感動ポルノ」という言葉があります。自分よりも過酷な境遇を紹介されることによって、「可哀そう」「大変だね」「それに比べれば自分なんて」などと思わせるように誘導されたコンテンツを総じて呼ばれたりするわけですが、この言葉になぜ「ポルノ」という卑猥な言葉があるかというと、こういうコンテンツには現実を非現実化させる、あるいは日常を非日常化させる作用があるからであり、感情の発露による快感と性的興奮による快感は結局やってることは同じだよ、と言ってるからにほかなりません。
つまり言ってしまえば、ゴシップや暴露、災害報道、事件事故の詳細説明等は娯楽の一環であり、それは突き詰めれば「ポルノ」である、ということを「感動ポルノ」という言葉にはあるわけです。
だからみんなテレビ見たらバカになる、と言ってるわけです。
まぁつい最近、ゴシップ番組のコメンテーターがゴシップのネタになるというお笑い芸人のネタの王道を現実にやってしまった人もおられたみたいですが、結局それもやってることは「ポルノ」ってだけの話、娯楽の一環です。
モラルの崩壊が人を壊し、国を亡ぼす
建物の老朽化の主な原因は「浸食」だそうです。小さな地震や強風、落雷等によりできたわずかなクラック(ひび割れ)に雨露が徐々に浸透し、または基礎部分の水はけや風通しが悪いことで、徐々にその周辺の鉄筋をサビさせ、害虫やカビが発生し、ある時から建物全体を蝕み崩壊するということです。
日本という建物には、戦後数十年という時間をかけ、様々な形のポルノという雨露が浸食し、現状では一見外壁は変わりないように見えても実はヒビだらけ、内壁にはカビがびっしり、ハエアブゴキブリ白アリといった害虫がそこかしこ、という状態なのかもしれません。
そう考えるともしかしたら、今年は日本という建物がモラル崩壊によって音を立てて崩れていくさま、戦後の終焉とでもいえるような状況になっていきはしないかと思ってしまいます。そう考えると、昨年の不祥事におけるもろもろのさまざなという流れは、こういった崩壊の予兆に過ぎなかったと捉えるならば、どこまで崩れいてくのかということを想像するだに大変戦慄し、それだけでPTSDになってしまいそうな、それこそ現実から目をそむけたくなるものの、ふたをされたパンドラの箱という日本社会から発する耐えがたい汚臭に否が応にもそれを見ないわけにはいかない、という状況なのではないかという気がします。
死は救いなのか
私は1979年生まれ、独身、男、引きこもり歴4年といった人間です。学童のころから、数年間、大変陰湿ないじめを継続的に受けました。いわゆる集団的なシカトによる暴力です。それを察知した先生方はあの手この手と対応をしてくれたようではありますし、クラスメイトは皆口々に「この程度いじめとは言えない」というのですが、そもそも論としてそういう問題ではないのです。出発点が根本的にずれています。
いじめの最大の効力は人生に暗い影を落とすことにほかなりません。なぜか。少なくとも数多くの、その中には自分がよりどころとしていた人も含まれていたりしますが、そういう人たちから「あなたは私にとって必要のない人間だ」というメッセージを継続的に投げ続けられるからです。子供にとっての5年間は大人になってからの15年間ほどに相当するというのが私が最近感じたことですが、人生の時間の多くの割合の期間、そういうメッセージを周囲の多数の人間から受けるというのは、自分自身の自己評価を大きく落とす直接的な原因になりえます。そうなると、自分はこの世に必要だと思って来たのに、みんなから要らないといわれる、ならば別にこの世にいる必要はない、もともと未練なんてないし、という考えにいたるというのも理解できるのではないでしょうか。
それは、たとえ現世にお別れするという選択を取ったとしなくても、その後の人生においての何かの選択の時には、積極的に良いものにしたい、つながりを強く持ちたい、と思うことは、大変自分勝手で身勝手な、自分にそういう資格があるだろうか、とためらうには充分すぎる経験です。結果、本当にやりたいこともせず、難しい何かに挑戦しようという気持ちもわかず、義務感で大学受験のための勉強をやり、のんべんだらりと遊んで大学生活を過ごし、それなりのサラリーマンを志望し、あまりの人ならざらん付き合いに数年で辞め、何をするでもなく、死んだような人生を送ることになるわけです。
それでも、私はものすごく幸せな方だと思います。いじめは途中でそれとはなしに収束し、中学、高校時代には心のよりどころとなる友人ごっこに付き合ってもらった方が何人かいてくれ、私にはゲームがあり、ゲーム会社に入れるくらいの技能を身に着けたいといういくらかの気概が当時あり、3人兄弟でとてつもなく裕福ということでもなかったにしろ、両親もろとも何かにつけ生活もろもろの費用を工面して渡してくれたからです。正にそういう人たちに生かされてここまで来ました。縁、現世とのつながりを感じられる糸のようなものを、半ば無理やりですが、いただいて今を生きています。
なぜ、集団的ないじめが発生するのか
いじめに限らず、不正、犯罪、事件といったいわゆる悪事というものに関しても、結局のところ、現世とのつながりを積極的に強めたいからこそ起きる、ということができます。
なぜ、集団的ないじめが発生するのかというと、社会的な所属に関する欲求を満たすことができ、そこにカタルシスがあるからです。狩猟農耕牧畜石器時代の代替をしているわけです。
なぜ、わざわざ代替してまでそういうことをするのか、というとこれも簡単で、社会的な所属を実感できる場がほとんどなく、社会的な所属に対しての役割を果たすことが難しく、さらにそれを果たしたときの報酬が無さすぎるから、というところに尽きます。
絵を描くのが好きだからマンガを描いて褒められたいけどどうせみんなドラゴンボールやコロコロ読むし、ゲーム作れてすごいって本心で言ってもらいたいけど、パソコンは高いし授業で使うソフトはしょぼいからすごいものが作れないし、歌がうまい奴はほかにいっぱいいるし、楽器は難しいし、走るのは遅い、成績は下の下、客観的にみてもメンは普通以下、優しくもないし、気配りなんかできないし、みたいな。
その反転として21世紀に入ってから「ホメて伸ばす」みたいな教育が流行ったりもしたようですが、ホメられたから満足かというとちがうわけです。そこもズレてるんです。控えめに言って意味がない。
何が言いたいかっていうと
何かが起きてからでは遅い、というとまた誤解されやすい表現になりますが、そうとしか言いようがない、というのが一つ。
傍観してたやつも同罪、というとまた誤解されやすい表現になりますが、そうとしか言いようがない、というのが二つ目。
被害者も加害者も問題があるよね、というとまた誤解されやすい表現になりますが、そうとしか言いようがない、というのが三つ目。
そういう事を興味本位で見聞きするのは「感動ポルノ」やぞ、というとまた誤解されやすい表現になりますが、そうとしか言いようがない、というのが四つ目。
そういう状況の日本どげんかせんといけん、というとまた誤解されやすい表現になりますが、そうとしか言いようがない、というのが。
ていう。
誰が良いとか悪いかとかで論じること自体ナンセンスなんです。どうせみんなコンテンツなんて現世とのつながりを強めるために消費しているものなのですから、だからこそ、もめるわけです。マンガにしろアニメにしろ、配信者にしろ(犯罪にしろ)、それぞれの人たちがそれぞれの方法で、一番自分が得意な現世とのつながりを強めるためにそれをコンテンツとして共有しようとしているというだけであって、そりゃ、やり方が相反すれば、生存競争なわけですから、大変血みどろの争いがそこかしこで起きていても全く不思議はない話です。許せないとか可哀そうとか、そういう次元の話ではない、感情を合わせるならそんなこと言ってられっか、ってのをみんな思ってるということです。
天照大御神の岩戸に籠った話を底から知ってる人はどれくらいいますか?
日本書紀の話の中で、天照大御神(以下、アマテラス)が岩戸に籠ったという話はご存じの方は多くおられることと思います。しかし、それを開けたという話はよく知られていますが、なぜ岩戸に籠ったか、というのを知る人はほとんどいないと思います。
先日、ちょろっとだけYoutubeの解説動画でその話を聞いたのですが、アマテラスが岩戸に籠る前には彼女の実弟であるじゃじゃ馬で粗暴なスサノオが根の国へ行く道中に会いに行ったそうです。アマテラスは高天原という神々が住まう国を統治する最高責任者であるわけですが、スサノオが高天原に来るときに、天気が大荒れしたため、それによりアマテラスが高天原を攻めてくるぞと言って戦の準備を神々にさせたといいます。
そこからアマテラスが岩戸に籠ったのはなぜかというと、高天原の神々がアマテラスにすべてを任せてしまっていたからでした。戦の準備をさせてもやる気なし、スサノオが暴れても知らんぷり、業を煮やしたアマテラスは、これでは国を守ることなどできないとわからせるために、岩戸に籠った、ということです。
さて、この状況、どこかで見た光景という気がしませんか。私はします。
ユダヤ教の教義のなかに、「神話を忘れた国は亡ぶ」という話があります。このまま、日本が亡ぶか、否か。もしかしたら私が生かされた理由というのはこのあたりにあるのかもしれません。
あなたも。