明日よ、来るなら来い
2021年の春、カナダはアルバータ州のカルガリーに住んでいる私の子供たちは、それぞれの学校でコロナ感染者が出たため、本人達は感染していなくても自主隔離をするよう要請され、度々家でオンライン授業を受ける事になった。やっと学校に戻れたと思ったら、また自主隔離、そんな日々が続いて子供達のメンタルヘルスが大きく影響を受けた。
5月、6月頃にはアルバータ州の12歳以上の子供達もワクチンを受けられるようになり、7月の始めには州の人口の70パーセントが、少なくとも一回目のワクチンを受けたそうだ。
しかし春から夏休みまでの段階では、感染状況も予断を許さない事態だったので、家でオンライン授業を受ける子供達の授業内容が、嫌でも親の耳に届いていた。高校2年生の娘は近代史で、第二次世界大戦の事について勉強していた。歴史の勉強というのは、お国が代われば、その国の主観で教えられる。第二次世界大戦の時は、言うまでもなく日本とカナダは敵国だった。娘はその両方の血を受け継いでいる。戦争中、カナダに住んでいた日系移民は収容所に入れられていた事実があり、その事について後年カナダ政府は公式に謝罪している。でも、娘のクラスで、一部の生徒達が「いかにカナダとその同盟国が正当だったか」議論を始めると、疑問を感じながら肩身の狭い思いをする、と娘が言っていた。
そこで、日本の民間人が、もっと平たくいうなら、私の祖父母が戦時中、そして戦後どう生き延び、どうやって暮らしていたのか調べて、子供たちに教えてあげたいと思ったのだ。母に聞いたり、当時の暮らしを調べていくうちに分かった事は、今よりずっと国外の情報が乏しく、だから多くの日本人が外国の情勢等にうとかった、という事だ。
私の祖父は青森で生まれて、学費を稼ぐために樺太(今のサハリン)で少しの間牧童として働いたそうだ。その頃は、第1次世界対戦の後で、サハリンの南半分は日本の領域だったらしく、ロシア人と交流もあったのだという。でも祖母は、当時多くの女子がそうだったように、教育は尋常高等小学校といって、14か15の年の頃までしか与えられず、祖母の与えられた選択は嫁に行くか お針子になるかだった。お針子になった祖母は東京で私の祖父と出会い、所帯をもったが、祖父の仕事の関係で名古屋へ引っ越した。戦争が悪化して本土攻撃が始まると、祖父は故郷の青森へ家族を疎開させた。祖父はビール工場で技師として勤めていたそうだが、空襲に怯えながら、毎日また家族と無事に会えますようにと願っていたらしい。戦後、名古屋の下町に居を構え、5人の子供を育てた。「貧乏だったけど、楽しかった。」と母は懐かしそうに言っていた。
祖母はしつけに厳しい人だったそうだが、さっぱりした性格で、ピシッと叱ったらいつまでもネチネチと同じ事を言わず、祖父も細かい事にあまりこだわらない性格だったそうだ。祖母の子供の頃に、日本でもスペイン風邪が流行ったり、関東大震災の時に大火事の町の中を家族と逃げまわり、怖い思いをしたそうである。そして第二次世界大戦を経験して、肝が座っていたのかもしれない。さらに、私の母が小学校6年生の時、伊勢湾台風で、家の2階まで浸水して屋根の上まで登ったそうだ。
それでも、というか、それだからなのか、祖母はお祭りやお正月になると、浴衣や晴れ着を縫ったり、山程のいなり寿司や海苔巻きを用意して、親戚や近所の人達をよび、賑やかに過ごすのが好きだったそうだ。
祖父は、子供達を連れて潮干狩りに行ったり、知り合いから無料で借りた野菜畑を耕しにいったり、今でいうピクニックのような事をするのが好きだったそうだ。車なんてないから電車やバスで出かけ、持っていくお弁当はいつもいつも、決まって鮭の入った特大おにぎりだった。祖父はその大きな手で、海苔巻き用に使う焼き海苔一枚で、丸ごとご飯を包んでおにぎりを作ったので、母達は「ばくだんおにぎり」と呼んで喜んだそうだ。貧しくて、凝ったお弁当を用意できなかったけれど、子供達を喜ばせたい祖父のアイデアだったのかもしれない。
私もここ3年の間に、弟がくも膜下で亡くなったり、夫が稀少な癌にかかってしまったりしている。そして今世界中がコロナ感染の脅威にさらされているけれども、戦争や災害をくぐり抜けて生き延び、明るく暮らそうとした祖父母のお手本に倣って生きたいと思う。今はもう会えないけれど、残してくれた教訓は、きっとどんな財産よりも価値があるのかもしれない。
ーおじいちゃん、おばあちゃん、あなた達のお陰で今日の私があり、子供達がいます。普通でない状況を乗り越えて、平凡に生きられるという事がどれだけありがたくて、幸せな事か分かってきた気がします。だから、不安な時こそ、あなた達を思い出して心の中で言ってみますね。「明日よ、来るなら来い!」ー