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性別変更の要件「手術」は違憲
出生時の性別と性自認が異なる人が戸籍上の性別を変更する際の要件の一つである「生殖機能を無くす手術(生殖不能要件)」について、家事審判の特別抗告審において違憲判決が出されました。
最高裁大法廷(裁判長・戸倉三郎長官)は10月25日、「生殖機能を無くす手術(生殖不能要件)」について「憲法(13条)が保障する意思に反して体を傷つけられない自由を制約しており、手術を受けるか、戸籍上の性別変更を断念するかという過酷な二者択一を迫っている」として、裁判官15人全員一致の意見として違憲と判断しました。「性同一性障害特例法」の制定時は生殖機能を残して性別変更した後に子供が生まれた場合、親子関係や社会の混乱が想定されていましたが「こうした問題が生じるのは極めてまれ」であり、性的マイノリティの理解促進の取り組みが広がっている状況も踏まえると「制約は必要とも合理的ともいえない」と結論付けました。
一方、「性別変更後の性別に似た性器の外観を求める要件(外観要件)」については審理が尽くす必要を認め、憲法判断せずに高裁に差し戻しとしました。この外観要件につき、3人の裁判官は違憲とした意見を出しています。
これについてネット上では様々な意見が飛び交っていますが、個人的にもやむを得ないという感情と、法的にはそうだろうなという感情、妥当と言えば妥当かなという感情などが入り混じっています。
冷静な判断をするためにも、この2つの要件は分けて考えてみましょう。
■生殖機能を無くす手術(生殖不能要件)
まず前者は、幸福追求権を定めた憲法13条に規定される「意志に反して身体への侵襲を受けない自由」を制約するものとされました。これは強制的に身体を傷つけることはしてはいけないという意味です。一見、性別変更を求める者に選択する権利があるため強制ではないと思う方もいらっしゃると思いますが、最高裁は「過酷な二者択一を迫る」ことは事実上の強制と同じだと判断したため、それは憲法に反するという意見に繋がりました。
「戦後最大の人権侵害」と言われることもある旧優生保護法下において行われた強制不妊手術訴訟は、高裁で「特定の疾患を理由に優生手術を強制するのは、個人の尊重という憲法の基本理念に反する」として憲法13条、および14条に反するとした判決が多数出ていますが、この強制不妊手術訴訟と生殖不能要件訴訟はいずれも同じ判断ような下されたことになります。
仮にこれが認められた場合、性別変更後に、同じく性別変更をした人と結婚して自分たちの子供を望んだ場合、生殖不能にしているためそれが叶うことはありません。それは大きな制約ですが、それと引き換えになる懸念は生まれてきた子供との関係性や社会の混乱を招くことであり、法制定から20年あまりが経過し、性的マイノリティへの理解が促進されている現代ではその制約は釣り合わないと判断されても仕方ありません。
■性別変更後の性別に似た性器の外観を求める要件(外観要件)
逆に後者の外観要件は、違憲判決は出されず、高裁へ審理を差し戻しされました。こちらはネット上でも多く方が懸念するように、公衆浴場や更衣室での懸念を考慮すれば当然だと思います。
仮にこれが認められた場合、男性器を見せびらかして女性風呂に入ることも可能ですし、それを見てシスジェンダー、つまり生まれたときの身体と心の身体に性的違和を持たない人たちが不安や困惑、羞恥心、教育的に懸念があって当然です。外見を見ただけでは、それが性別変更をした人なのか、受付を騙して裸や着替えを覗きに来た男なのか分かりませんし、当事者は構わないとしても、子供に成人したあとの男性器を見せることに抵抗がある親は多いでしょう。
そうした懸念を考えると、反対意見を出した検察官出身の三浦守裁判官が「体の外観が法的な性別と異なると公衆浴場で問題が生じるなどの可能性を考慮したものだが、風紀の維持は事業者によって保たれており、要件がなかったとしても混乱が生じることは極めてまれだと考えられる」と意見したのは大きな問題だと思います。
現状、外観要件を満たしていない人は外観が異なる更衣室などを利用できません。なぜなら戸籍が変わっていないからです。つまり、法的にも外観的にも異なる性別の公衆浴場等を利用した場合、多くの場合、警察に突き出されますし、そうしたニュースはたまに見かけるます。
しかし、外観要件を満たさずとも戸籍を変えてしまうと、法的には性が合致した公衆浴場等を利用することができ、その場合の混乱がどうなるかはそうした状況になって初めて分かることであり、誰にも断言できることではありません。にもかかわらず、「混乱が生じることは極めてまれ」と言い切る三浦守裁判官の意見は大きな問題と言えます。
また、弁護士出身の草野耕一裁判官は「意思に反して異性の性器を見せられて羞恥心や恐怖心などを抱かされることがない利益を保護することが目的であり、この規定を憲法違反だとする社会の方が、合憲とする社会よりも善い社会といえる」と、憲法に違反すると意見しました。
この「意思に反して異性の性器を見せられて羞恥心や恐怖心などを抱かされることがない利益を保護することが目的」とは誰の意思を指しているのか、このコメントだと分かりづらいですが、まさにここが大きなポイントで、多くのシスジェンダー(生まれたときの身体と心の身体に性的違和を持たない人)が「自らの意思に反して異性の性器を見せられて羞恥心や恐怖心などを抱かされることがない利益を保護する」ために外観要件が必要なのではないでしょうか。
性別変更を望む人と、シスジェンダーの人の利益が異なる場合、最大多数の最大幸福という民主主義の基本に立ち返る必要があると思いますが、草野裁判官は「少数派の利益のために多数派が我慢を強いる」ことになり、歴史的に和をもって生活してきた日本国民がそれを受け入れるのは非常に難しいと思います。
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」という憲法13条の条文のとおり、こうした問題は「公共の福祉に反しない限り」最大限尊重されるのであって、反対意見を出した三浦守裁判官、草野耕一裁判官、宇賀克也裁判官の3名はその部分を軽視しているように感じます。
■まとめ
トランスジェンダーを初めとしたLGBTなどについて、個人的にはどうでもいいと思っています。他者の性自認がどうであれ、性的指向がどうであれ、周りがとやかく言う必要は基本的にないと思うからです。
しかし、それが他者と関わる部分に関しては、特段の配慮が必要であり、それはLGBTの当事者も、シスジェンダーも同じだと思うのですが、近年は特にLGBTの当事者に過度に配慮した意見が散見されます。差別と区別の違いをわきまえず、逆の立場になって考えるという思いやりの心の基本的な部分が置いてけぼりにされているように感じてしまい、残念に思うことが多くなりました。
例えば、一橋大学アウティング事件は、亡くなったLGBTの方を過度に持つような意見がマスメディアでも散見されましたが、アウティング、つまり性的指向を暴露した側の意見は非常に軽く扱われたように見えました。確かに他者の秘密を侵害する行為ではあるものの、LGBT当事者として告白するということは自身がLGBT当事者であることが広がることは想定すべきですし、相手の同意なしに自らそれを暴露してにも関わらず、その秘密を守秘義務のように相手に守らせ続けるというのは、他者に過度な負担を強いることになるのではないでしょうか。
もちろん、様々な意見があることは承知しています。私のような意見の人もいれば、こうした意見を全く受け入れらない人も、判断が付かない人も、全く違う意見の人もいるでしょう。だからこそ議論が必要なのであって、マスメディアが勝手に作りだした空気によって動くのではなく、国民全体がそれぞれの意見を持って様々な角度から議論をした上で方向性が決まればいいなと思います。