昭和ドーナツと罪悪感
罪悪感とは一種の麻薬である。
人間だけが持つこの不思議な感情は、自分を自分で罰する感情。
人が持つ感情の中でも一番強烈に行動を操作する力がある。
人が幸せじゃないと感じるとき、必ずその裏には「罪悪感」が潜んでいるという。裏を返せば、罪悪感を捨ててしまえば、幸せになれるのだ。
なのになぜ、こんなにも人は「罪悪感」から逃れられずに幸せから遠ざかってしまうのだろうか。
有名な心理学者が言っていた。人間が神様から一つだけ感情を選んでいいと言われたなら、人間は皆「罪悪感」を選ぶと。
あんなにも苦しくて、それを手放したくて様々な努力をしているというのに、無意識では求めているということなのか?
ちょっと掘り下げてみる。
罪悪感とは、自分で自分を罪人として処罰する感情だ。だからそれがあるとき人は重苦しさを感じたり、ひどいときは肉体的に自分を痛めつけたりもする。自分が「幸せ」だと思うことの反対の行動をとらせようとするのだ。
一番最初に人間が抱く「罪悪感」は「親」とくに「母親」に対して抱くそうだ。
小さいときにまだ何もできない子供だったあなたから見れば、お母さんは完璧な存在。食べさせてくれて何でも出来て命綱。
そんなお母さんが嬉しそうならあなたも嬉しい。でも、お母さんが悲しそうだったり怒っていると、あなたはそこで「罪悪感」を抱く。
私のせいで怒らせてしまった。
お母さん悲しそう。なのに私は助けてあげられない。
それが罪悪感の始まりだそうだ。
そこで自分を恥じたり罰したりするけれども、親の期待にそうそう全部は応えられない。そこで、ある時期子供はその罪悪感から「不良」を演じるか「いい子」を演じるかを選択することになる。
親の期待に応えられない自分を「不良」としてわかりやすく表現するか、ずっと親の期待に応え続けようと「いい子」になるかは、全く別のようでいて、実は同じ「罪悪感」からの行動だったのだ。
しかし、罪悪感のやっかいな特徴として根っこでは自分を罪人として罰しているので、本来の目的とは逆の行動を取らせようとする側面を持つ。
つまりは自分を幸せから遠ざけようとするのだ。
幼児期に「いい子」を選択した人は世間的にはいい子とされる行動を取る一方で、水面下では万引きや不倫などの社会的ルールに反する行動をとったりする。
または母親の願いを叶えてあげたい欲求は尽きることがないのに、半面で母親を避けてしまったり遠ざけてしまったりもする。
一方で「不良」を選択した人は、世間的に悪いとされることを表向きには選択しつつも、裏では切実に母親の愛情を求め、人目に触れないところでとても素直な「いい子」の自分を存在させたりもする。植物を大切に育てたり、ボランティア活動にいそしんだり。
嗚呼、神さま。なぜにあなたは「罪悪感」を人間に与えたもうた!
こんなにも矛盾に満ちて、滑稽で、純粋な人間たちの姿をどう私は捉えればいいのか。
その神様からの人生ゲームにひねりを加えるエッセンスのごとく、わたしはバニラエッセンスを黄色くて香しいドーナッツの生地にぴゅっ、ぴゅっと振り入れた。
バニラエッセンス。
お菓子を作る人なら誰でも知っているそれは、スゴイ威力を持つ。
パウンドケーキ、マドレーヌ、クッキー・・・ありとあらゆるお菓子に実はそれが入っているのだ。
お菓子作りは材料を精密に計って、それらを適した温度で混ぜ合わせていく。その過程は地味な力仕事が殆どで上腕二頭筋が悲鳴をあげるほどの撹拌を余儀なくされたりもする。緻密さと努力だ。
しかし、いつも最後の最後で全ての苦労をあざ笑うかのように、上からぴゅっぴゅっと振り入れられるそれによって、甘美で魅惑的なあのお菓子達は完成する。
たまにバニラエッセンスを入れ忘れて作ったことが何度かあるが、その仕上がりは全く別物で、ただの「食事ではない何か」になっていた。
「罪悪感」
それは、神さまが用意したバニラエッセンスなのか。
あんなにも少量で全ての材料を飲み込み、甘美な香りで顕在意識をそぎ落としてしまう。
「罪悪感」
それは、もしかしたら人間が自分を自分だと勘違いしている「顕在意識」を取っ払って、遺伝子レベルの判断を司る「潜在意識」「無意識」へ繋がる媚薬なのかもしれない。
真っ白い砂糖にまぶして大きくかぶりついたドーナツは、罪悪感の味がした。