ポトフと変なおかん
とにかく明るいおかんだった。
そのずば抜けた明るさと奇抜さは、すぐに友人の間でも話題になるほどだった。
「すっずきのかーちゃん!すっずきのかーちゃん!」
忘れもしない小学校の授業参観の日、クラスの男子たちが唐突にコールを始めた。嫌な予感がして後ろを振りかえると、教室の後ろのドアの丁度大人の顔の高さに、小窓が付いているのだが、その小窓におかんが男子のコールに合わせてリズミカルに顔を出したり入れたりしているのが見えた。
すな。
余計な事をすな。
思春期の私は、顔から火が出る思いだった。
とにかくノリがいい。期待されると即座になんでもやってしまう。
運動会の時にも事件は起きた。
入場行進が終わり、かったるいラジオ体操が始まってしばらくした時だった。
「わははは!またやってるぞ。スズキのかーちゃん、おもれー!」
嫌な予感しかせずに当時一番後ろだった私は、はるか前方に目をやると、生徒とお見本の先生に混ざり、生徒と向かい合う形でおかんが思いっきりラジオ体操第1をやりきっている姿をとらえた。
すな。
ラジオ体操第1すな。
そんな母だが、料理は抜群に美味しかった。
洋食・和食・中華、何を作らせても見事だった。
私が大学生になる頃には、母の料理目当てで男子達が家にたむろするようになるほどだった。中でも人気は一晩煮込んだビーフカレー、半熟親子丼、高級シャケのお茶漬けだった。
基本的にダイナミックな味付けが得意なのだが、私が印象に残っているのは繊細な味の「ポトフ」だった。
野菜は大きくほぼ原形で煮込まれて、そこにスペアリブか肩ロースがいい出汁をきかせていた。コンソメと塩と野菜の甘味で何とも言えない穏やかさが隠れていた。
おかんを一言で表すとガサツだった。
大まかな片づけは出来るのだが、基本的に片づけが嫌いなようだった。母が死んだら戒名は「掃除能力欠落大姉」にしようと家族で相談していたくらいだ。リビングはパッと見は片付いているのだが、ソファーの奥などの死角にバッグをどんどん重ねてぶちこんでいく妙な癖があった。
台所もひどいものだった。
水道の蛇口になぜか輪ゴムをどんどんと重ねていくものだから、古い奴なんかはもう少し溶けて蛇口と一体化しようとしていた。中華鍋は食材が入る箇所だけを洗うから、下の部分は油と焦げでどんどんと厚みが増し原型がわからなくなっていた。
幼い頃は我が家のルールしか知らないから、これが普通だと思っていたが、成長するにつれて、我が家が普通ではないことを肌で感じるようになり、私はその反動から軽い潔癖症に仕上がった。
整理整頓という一面では病的にガサツな母だが、その反面非常に繊細な部分も持ち合わせていた。
昔から手芸が得意で、手芸の中でも上級者が到達する「モラ」というパナマの民族の伝統手芸で大賞を受賞し、その様子は朝のニュース番組や情報番組でも放映された。
それを機に雑誌の取材なども数社お受けしたのだ。
世間が認めるその芸術性の高さではあったが、おかん本人は人前に出たりもてはやされることを極度に嫌うので、すべて私がマネージャーとして窓口対応をした。
本人としては誰かに認められるためにとか、賞を獲得するためになどという目的は微塵もなく、とにかく自分の気の赴くままに行動しているだけなのだ。それは母のポトフにも表れていた。ダイナミックな料理も、繊細な料理も、全ては他者が決めた価値観にすりよることなく、気の赴くままに作ったら絶妙なバランスが完成していたのだ。
誰かに笑われるから。
恥をかくから。
そんなことは、どうでも良かったのだ。
常に自分のさじ加減で全てを楽しんでいたのだ。
そんな母の姿は押しつけがましくなく、未練垂らしくもなく、自己犠牲感もなく、純粋に周囲を楽しませていた。
不得意なものは無理してやらない。得意なものは適当にやる。他人の評価はどうでもいい。
そんな生き様は、自然と周囲を笑顔にしていった。
なんだ、私がずっと探していたものは母の生き様だったのか。
恥じているようで、求めていたのだ。
遠ざけているようで、求めていたのだ。
そんな母の生き様を振り返りながら、今夜は私が娘にポトフを作った。
娘にはどんな母の味に感じるのか。
ちょっと緊張しながら、今の私のさじ加減で味付けをした。
文字と料理で誰かの今日をほっこりさせます♪