空白の1年間は何を?ボートレース?
台湾留学大学二年生21歳。
空白の1年間は何を?
大学受験をする前から、私の母は留学やボートレーサーの道を勧めていてくれていた。
なぜなら、
私はとても熱心な性格で一つの事柄に対して魚の鱗のように一点集中で取り組むことができるのだが、勉学とても効率が悪いようで、学力は全然伸びなかった。
母親は私を全て理解した上で、
私が楽しめる道を提案してくれていた。
しかし、私も初めて「ボートレーサー(以後B Rと記載)」というフレーズを聞いた時には
「は?」となった。そんなふざけたことを言わないで勉強に集中させてくれよと思った。
B Rはお客様がお金をかけることができる国営競技で、国営競技とは文字通り国が経営をしている競技である。
日本では賭博は禁止されているが、ボートレースや競馬、競輪などは国営で儲けたお金を社会に還元/寄付することで、それを行うことが許されている。
非常に複雑な法律の上にあるのだ。
なぜ母が私にB Rを進めてきたかという話に入る。
B Rは小型船二選手一人が乗り一周600mの楕円形のコースを3周する速さを競う競技で、最高速度は時速80kmほども出る。操縦席にシールドのようなものはなく、体感速度は時速120km程とも言われている。
速さを競う競技なので、体重は軽いほうが有利となる。
選手になるためには、サッカーのように子供の時からひたすらその練習に励むのではなく、
試験を受けて、唯一福岡県にあるボートレーサー養成所という施設に1年間の間入所をし、その期間のみで操縦の訓練を受けることができる。
要するに、その施設に入るまでは誰もが初心者なのだ。
そして、死亡事故もあるほど危険な競技かつ、大金を動かす競技なので、選手の平均年収は2000万円にもなるらしい。
新人からベテランまでの平均額でこれとは、はとても夢がある。
私が受けた際の募集要項は、身長174cm以下、体重57kg以下などだった。
当時の私は試験準備もあったので、171cm、64kgくらいあった。
試験は年に二回、三次試験まである。
何が試されるかというと、高校入試レベルの学力、柔軟力、筋力、筋持久力、動体視力、瞬発力、人間力などであった記憶がある。
一次試験は学力試験や簡単に筋力を測るいくつかの試験。
二次試験と三次試験は福岡の施設に泊まり込みで行われる。
内容はもう、覚えられないくらいの量の細かなもの、
先ほど挙げたものの他にも聴力検査や腸内検査、精神チェック、面接などなど。
確かに、募集要項を見る限り、倍率こそ高く、ダイエットの必要があったものの、可能性はあると感じた。
記事を見漁った感じから言って、一発で合格するほど簡単な世界ではなさそうだったので、
留学を主軸にしつつ、B Rも視野に入れよう、ということが親との相談で決まった。
一次試験は5月の中旬に行われるので、かなり短い期間でダイエットと筋力増加を図る必要があった。
1ヶ月で10kg痩せるダイエットのやり方は、炭水化物を抜き、1日2食。野菜と鶏肉ばかりを食べていて、過剰なエネルギー不足で立つ度に立ちくらみをしていた。
そんな状態で1時間のランニングや筋トレを限界まで行うことを毎日毎日した。
毎日1時間ちょうど走ることを続けると、時計を見ずに時間の経過が感覚でわかるようになった。
一時間くらい経ったかな、と時計を見ると、誤差は±3秒くらいだった。
市販の体重計では私の体脂肪率を測れなかった(市販のものは5%まで測れるものが多い)。
おそらく3%以下だった。
体脂肪率も体重も、体重計に乗らずにお腹の肉のつき方や足の裏にかかる重圧の違いでわかるようになった。
やれることは全てやって臨んだB R養成所入所一次試験。
これは北海道から沖縄まで全国で行われる。
私は福岡で受けた。
受けた総数は2000人くらい?この情報は不確かだが、それくらいだったと思う。
で、養成所に泊まり込みで行われる二次試験にいけるのは200人前後。
一気に10人中9人が振り落とされる。
受けた感覚は、完璧で、学力テストはおそらく一問間違い。
体力テストも自信があった。
母にもこのように伝えた。全く悔いは無いと。
1ヶ月後の結果発表、通知が届いた。
受かっていた。
嬉しかったが、当然だろうという感覚が強かった。母の応援の元、それくらい努力した。
そして、2・3次試験では200人から50人になる。
どのような試験が行われるかは当日にしかわからないが、傾向と対策は存分にしたし、体重もさらに絞った。
受かる確率はまだまだ低いので、バイトも英・中国語も引き続き勉強していた。
ちなみにバイト先には、この試験を受けることは伝えておらず、面接では社長に半年以上はここで働けますと伝えていたし、私もそのつもりだった。
とても良い環境で働くことができて、たくさんのことを学び、新たな強い人脈も構築できた。
そして、6月12日から二次試験を受けるために福岡へ向かった。
知り合いにもなにも言わずに向かった。なぜなら受からない確率の方が断然高いからだ。
会場へは携帯の持ち込みやその他必要のないものは全て没収された。
真っ白の服を着たそこの訓練生を見ると、私たちはまるで機密研究所へ研究対象として持ち込まれるようだった。
二次試験が最初の二日間で行われ、三日目の朝に体育館で結果発表が行われ、そこで番号を呼ばれなかった100人は即、荷物をまとめて帰宅。
残った100人は4日目も試験がある。
無論、親にも合否の連絡はできない。
ルームメイトが5名おり、話を聞くと、七回目の受験という人もおり、私のみが初受験で、
どんなことが試されるかという話を聞き出してみると、
面接では好きな選手名を問われるらしかった。
ボートレーサー選手、一人も知らん。
というわけで、彼らが私の見たことないボートレースについて話して盛り上がっているのを聞きながら、よく出てくる名前を丸暗記した。
一件落着。
200人もいると、待ち時間がとても長い。しかも携帯電話も無く、周りにはビシッと教官や訓練生が立って私たちを見張っているので、私は座っている姿勢も採点されるのかと思い、背筋を伸ばした状態を保ち続けた。
周りには寝ている受験者もいたが、あいつは落ちると自分に言い聞かせて、睡魔にも負けなかった。
待ち時間が本当にキツかった。
私は二次試験もできることを尽くした。意外と練習してきたことが生きたなと思った。
という感想。毎回の試験内容はちょこちょこ変わるらしい。
そして、三日目の朝、体育館に集合した。
これまで経験したことのない沈黙。
受験者は全員着席し、教官の一人が台の上でマイクを握った。
1から順に合格者の名前を呼び、返事がこだまされていく。
なんだかとても残酷だった。
私の番号は167だった。
それまでに気持ちの整理はできていた。後悔はない。
呼ばれた。
その瞬間、自分の親がどんな気持ちなのかを想像した。
合格しても落ちても、息子からの連絡はこない。
ただ祈る母を想像しながら、一人で合格を噛み締めることしかできない。
早く伝えたいと思いながら、三次試験も全力で受けるぞと心の兜の緒を強く締め直した。
後から聞いた話では、母は日中ずっとハラハラしており、夜8時頃になっても私が帰ってこないことで合格を確信したらしい。
三次試験に面接や病院で腸内検査など諸々が大きな病院で行われた。
面接では大きな声ではっきりが基本で、門の前では自分の氏名と番号を言う必要があり、167(ヒャクロクジュウシチ)は大きな声でハキハキ言うのはなかなか難しかった。
何回も残った2名の受験者と練習したので、本番も噛むことはなかった。
試験が終わり、私は同じ福岡にいる彼女にあって帰ることにした。
もちろん、まずは親に連絡をした。
やることはやったぞ。待ち時間が死ぬほど長かった。と。
彼女とスタバへ行き、甘いものをたらふく食べた。
あれほどの幸せは、無い、と断言できそうだった。
それでも、受かる可能性は低いと思っていたので、友人にも、バイト先にも、誰にも言わなかった。
ある日私がバイトをしていた時の休み時間。
母から数回の着信があった。
なんだと思い、掛け返してみると、B Rから試験結果の封筒が来ていたらしい。
受験者たちが「受かったら分厚い封筒、落ちたら薄っぺらいものが届く」と言っていたと言うことは母にも伝えていた。
すぐに分厚さはどうかを聞くと、どっちつかずの厚さらしく、母はそれの開封を待ちきれない様子だったので、私はそれを許可した。
受かっていたらしい。
びっくり。
え。
私はまだバイトがあったのだが、母は興奮を共有できる人に早く帰ってきて欲しそうにしていた。
誰もが、まさか、一発で受かるなんて思っていなかった。
一年間養成所に通い、その次からは選手となり、平均1400万の世界。
そりゃ興奮しますわ。
家に帰りその通知を読むと、北條訓練生、合格とあった。
入所は10月で、それまでに用意しなければならないことがいろいろあった。
小型船の免許の取得、白の靴下やTシャツ…
それから私は、友人はやバイト先にそのことを伝える必要があった。
誰に伝えるにも、「ボートレースとは何か」という事から説明しなくてはならなかった。
そして、そのことの重大さも伝える必要があった。
すると、多くの人が応援してくれて、母親のようなバイト先の店長も、
私がいなくなるのは悲しいけれど、頑張ってと背中を押してくれた。
バイトのメンバーも、私がバイトを辞めるのでたくさんのプレゼントをくれた。
バイトで知り合った先輩たちは大学生から主婦までいろんな年代の方がおり、私のことを、弟のように、ときには我が子のように面倒を見てくれた。
私はとてもおっちょこちょいで覚えるのが遅かったのだが、
コーヒー豆を忙しい朝、床にばら撒いた時にも、
誤ったドリンクを提供してしまった際にも、
間違った会計をした際にも、
優しく、何から何まで、教えて、注意して、改善させてくれた。
私が最後のシフトの時、仲の良かった王子様のような顔立ちと性格を併せ持つ先輩がわざわざきてくれた。
今日はなにを飲みますかと尋ねると、
カードに入金だけお願いします。と返してきた。
次に彼の顔を見た時、彼の目は琵琶湖を思わせるほどの涙が浮かんでいた。
心から絞り出すような声で、たくちゃん、頑張ってね。
と言われたときには、それを伝えるためだけに、来てくださったという彼の紛れも無い愛に、私の心がジンジンとあつく震えた。
彼女には一次試験の時から伝えていた。
過度なダイエットをしすぎていると、痩せすぎだと叱られた。
が、もちろん、とても応援をしてくれていた。
入寮する前には、必ず坊主にしなければならなかった。
人生初坊主。
入所当日。
母が福岡まで車で送ってくれた。
いつも通りの心強い母とうなぎを食べた。
なにを話したかは覚えていないが、独特の空気感だった。
期待、不安、喜び、哀愁、興奮、愛しみ…
入所。
訓練生は私を含めて約50人、1年間の間に25人くらいに減らされる。
入所がゴールでは無いわけだ。
そこへ入ると、まずは、抜かりなく荷物チェックをされた。
訓練に必要ないものはバンバン取り上げられていた。
一年に二回の試験があり、各代が一年間ここで生活するので、半年前にここへきた先輩が30人くらいいた。
みんな坊主で、身につけているものは各自で用意した時計以外の全てが白だった。
私たちも翌日からはその制服を身につけた。
支給されたものは、日常用制服、朝と夜の点呼用制服、式典用✖︎2、整備用服、体操服、日常用靴、点呼用靴、水上で身につける一式など。
そこでの生活は、THE 軍隊、という感じの生活で、マイペースな私は慣れるまでにかなり苦労した。
毎日6時に起床、布団を高速で畳み、高速で点呼服に着替え、上半身裸で寒い雪の日でも外へもうダッシュして整列をする。
最初の一ヶ月は布団をたたむ事、整列、敬礼などの練習をひたすらやらされた。
小さなミスをしただけで、大声で怒られた、
頭がおかしくなりそうだった。
運動経験者ならわかるかもしれない、突然もうダッシュなどすると、アキレス腱に多大な負荷がかかる。
6時のチャイムが鳴らないと起きてはならないので、私は5時50分くらい目を覚まし、布団の中でできるストレッチを行って、6時のチャイムと同時にフルスピードを出せるようにしていた。
そして点呼の後に、掃除、朝ごはん、9時から課業が始まり、12時にお昼ご飯、すぐに課業の準備、5時から片付け、6時に夜ご飯、お風呂。
それから二時間くらい自分の時間になるのだが、なにも持ってきていないため、最初はなにをしてよいかわからなかったが、慣れてくると、その時間に、予習や復習をしたり、手紙を書いたりしていた。
そして、就寝前に掃除、点呼があった。
この点呼がとても面倒くさかった。
点呼服には毎日アイロンをかけるように言われるし、敬礼の手の角度、足の角度、帽子のかぶり方、全てを注意される。
この点呼は、訓練生の体調や安否の報告はもちろん、そこから脱出をした人がいないかを確認していた。(⇦笑うところ)
最初の方に数回、こんな地獄にいるより、一か八かで脱走して知らない街で迷子になる方が良いかもな、という話を同じ部屋の訓練生と話した。
このように、どんなに地獄でも、
その環境を楽しむ方法はいくらでもある。
私たちの代の教官は顔にほとんど感情を出さずに、追い詰めるように怒ってくるタイプの人だった。感情論というよりかは、論理で攻めてくるタイプ。
少し前歯が出ているのっぽで、いじられる恰好の的だった。
紙とペンだけでできる遊びも一通りやった。
ヌメロンは流行った。
ボートレースというのは、国営である説明はしました。
それ故に、たくさんの法律が絡んでいる。
また、モーターやボートの整備も選手自身が理解できていないといけない。
選手になるからにはボートの操縦だけではなく、法規や整備も学ぶ必要があり、
どの課業も理解して慣れることがとても難しかった。
養成所では定期的にテストがあり、50人の訓練生に順位をつける。
1年間で25人程度まで減らされるので、後ろにいる人ほどその順位を見て焦る。
なぜなら、テストの結果が悪いと、強制的に退学させられ、二度と養成所に入ることはできないからだ。
これまでとてもマイペースだった私の性格を変えざるを得なかった。
5分前行動厳守は当たり前、そして、整備の授業などでは1分、1秒でも早く任務を遂行しなければならなかった。
数年前までの養成所はこれよりもずっと厳しく、体罰も当たり前で、操縦の試験でミスを犯すと池に突き落とされていたらしい。
私が入ったちょうどその頃は体罰がよくニュースに挙げられていたので、体罰はなく、言葉で責められた。
教官の口癖は「君、才能ないね。将来考え直したほうがいいんじゃない?」だった。
でも、これは訓練生全員に言っていたので、おそらく、私たちの心を試していたのだと思う。
B Rのレースは命に関わる。
あの小さい船は一つのプロペラの回転だけで、水上で時速80kmを出す。
もし、レース中に船から落ち、手にあたったら、手は一瞬で飛んでいくそうだ。
しかし、あまりにも鋭利なので、小さな血管まで、潰れずにきれいにカットされる、それ故に、手術で再連結しやすいらしい。
教官たちがねじ一個、ルール一つ、操縦一つであんなにも大きな声で怒鳴る必要はここにあったんのだ。
それを身をもって学ばせる、施設、ボートレーサー養成所だった。
三ヶ月ごろ経った頃に「外出日」なるものがあった。地獄から下界に戻れる日。
あそこに居たら食べたいものが食べられない。
あんなにも甘いものが恋しかった日々はない。
下界は素晴らしい。食べたいものが食べられるなんて、素晴らしいことだ。
外部との連絡は一切できなかった。
理由は、一年という短い期間でB R
の全てを学ぶ必要があるので、こっちに集中してほしいということと、
賭け事の世界では外部に漏らしてはいけない事情がたくさんあるからだ。
家族との連絡は全て手紙でのやりとり。それと土日の決まった時間だけは大蛇のような列に並べば2台だけある公衆電話を使うことができた。もちろん彼女との場合も同様。
ここに来るまで彼女とは毎日ラインをしていたので、手紙での二日越しのやりとりは、タイムスリップしたような心地がした。
初めて公衆電話を使う1週間前に彼女への手紙に、
「何曜日の何時に電話する、だけど、もしかしたら電話までたどり着けないかもしれないからね」とかいて送った。
久しぶりに声を聞いた時、短い時間で、何を話していいか、お互いにわからなかったけど、元気そうでよかった。
そんなある日のことだった。
夕方6時、自習時間の終り時、放送で「北條訓練生」と呼ばれた。
内容は手紙の受領に来ることだった。
周りにいた訓練生の視線がうるさかった。
私たちにとって手紙の受領に行く時ほど楽しい時間はない。
そして、友達とは毎回のように「誰から?」と聞くのだ。
地獄の楽しみ方。
そして、私は彼女からの手紙を鬼教官から受け取った。
「北條訓練生以下8名!手紙の受領に参りました!」と、こういう風に、決まった作法で一同にことを伝える。
声が小さかったり、足が少しでもズレていたりすると、やり直しをさせられる。
手紙を持ち帰ると、中のいい友人が誰からだ、内容は?とうるさかった。
彼女からの手紙を一人で楽しませてくれと思わせながら開いた手紙の中身は離婚届だった。
彼女は留学をしており、その地で働くという夢をもったらしい。
しかし、私と付き合っていると、私のことが好きゆえに、仕事も日本の中で選んでしまう、だから、別れようというものだった。
そんなものは応援をするしかないので、
これまでありがとうという想いと、夢に向かった彼女の背中を強く押す気持ちで返事を返した。
もちろん友人には笑顔で、彼女からだったぜと伝えた。12月のことだった。
この経験を客観的に見ると、相当キツそうに見えるが、人はそれほどきつい環境にいると、脳は覚醒し、ストレスに以上に竹のように柔軟な強かさを持つ。
手紙を見たときのショックはすごかったが、すぐに飲み込むことができ、次の日の訓練にどう備えようということを考えていた。
私は操縦の試験で不合格となり、強制退所をさせられた。
一度退所させられたらその業界には二度と戻れない厳しい世界。
誰かは、この頑張った一年が何も生まない無駄の時間だったと言うかもしれない。
しかし、私にとって、あの期間は、
もがくほど苦しくも、沢山の方々に応援してもらい、そのおかげで砂を食べるようにきついことにも耐えて、自分にできることはし尽くした、と言える。
とても学び多い期間だった。
この時期の友人たちは今、レーサーとしてお金を稼ぎ始めている。
その後私は一ヶ月間は家で休養をし、頭を切り替え、翌月から台湾留学サポートセンターへ通わせて頂いた。
そして半年後に台湾に来て、
私は彼らに負けぬためにも、お世話になっている方々に恩返しするためにも、、、
そんな使命を持ち、覚悟を持ち、志高く、ここ台湾で1日1日を生きていかなければならない。
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