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コンメディア・デッラルテの発展と衰退

こんにちは。芸能事務所トゥインクル・コーポレーション所属 パントマイムアーティストの織辺真智子です。
今日は、日本ではあんまり知られていない(演劇やパントマイムが好きな人なら知っている人も多いかな)コンメディア・デッラルテについて、どんなものなのかというのと、その発展と衰退の歴史、現代の状況を書いていこうかなと思います。

最初に書いておきますが、長くなっちゃいました!ごめんなさい🙇‍♀️

さてさて・・・

華やかな衣装、表情豊かな仮面、そして予測不可能な展開。舞台上で繰り広げられる即興劇!
息をのみ、ゲラゲラと笑うのは16世紀の観客達。
これぞコンメディア・デッラルテ、ヨーロッパ中を魅了した革新的な演劇。その魅力は単なる娯楽の域を超えています。コンメディア・デッラルテは、人間の本質を鋭く捉え、社会の縮図を滑稽に描き出す鏡でもあったのです。

では、この不思議な魅力を持つコンメディア・デッラルテの歴史を、時代を追って紐解いていきましょう。仮面の向こうに隠された笑いの秘密、そしてその普遍的な魅力の源泉を探る旅にレッツゴーでございます!

中世の眠りから覚めた芸術
1545年2月25日、イタリアの古都パドヴァで、歴史に新たな1ページが刻まれました。記録に残る最初のコンメディア・デッラルテ公演が行われたのです。しかし、この革新的な演劇形式は、突如として生まれたわけではありません。その根は深く、ヨーロッパの演劇の歴史に根ざしています。

コンメディア・デッラルテの起源は、古代ローマの笑劇「アテッラーナ」にまで遡るとされています。アテッラーナは即興的な要素と固定された登場人物を特徴とし、これらはコンメディア・デッラルテにも引き継がれました。しかし、キリスト教の台頭とともに、こうした世俗的な芸能は長い間抑圧されることになります。

中世の演劇は、以前の記事でお話しているように、主に宗教的なものでした。11世紀頃から教会で上演されていた「典礼劇」は、聖書の物語を劇場化したものでした。これが発展して、14世紀から15世紀にかけて「神秘劇」「奇跡劇」「道徳劇」といった形式が生まれます。これらは教会の外で上演され、徐々に世俗的な要素も取り入れるようになりました。一方で、中世を通じて民衆の間では、道化や吟遊詩人による芸能が受け継がれていました。彼らの即興的な演技や風刺的な内容は、後のコンメディア・デッラルテに大きな影響を与えました。

ルネサンス期に入ると、古典文化への回帰の流れの中で、古代ローマの喜劇が再評価されます。特に、プラウトゥスやテレンティウスの作品は、コンメディア・デッラルテの筋立てに影響を与えました。同時に、イタリアの各都市では、カーニバルなどの祭りで仮面をつけた即興劇が人気を博していました。

これらの要素が融合し、プロの役者による新しい演劇形式としてコンメディア・デッラルテが誕生したのです。

1545年のパドヴァでの公演は、これらの様々な要素が一つの形式として確立されたことを示す象徴的な出来事でした。中世の宗教劇の枠を超え、古代の伝統を復活させつつ、当時の社会風刺を取り入れた新しい芸術形式。それがコンメディア・デッラルテだったのです。

この新しい演劇形式は、それまでの宗教劇とは異なり、プロの役者たちによって演じられました。彼らは高度な即興技術と洗練された身体表現を身につけ、観客を魅了しました。コンメディア・デッラルテは、中世の長い眠りから覚めた演劇芸術が、ルネサンスの息吹とともに新たな形で蘇ったものだと言えるでしょう。

仮面が語る人間の本質
コンメディア・デッラルテの舞台でまず皆さんが印象的に感じるのは、そのキャラクターと仮面です。

そう、コンメディア・デッラルテには固定されたキャラクターが存在します。それは、まるで人間社会の縮図を見るかのよう。登場する個性豊かな人物たちの性質は現在にも通じるところが大いにあります。

まず目に飛び込んでくるのは、欲深い老商人パンタローネ。彼の姿に、私たちは自分の中にある物欲や執着心を見出すことがあるでしょう。若い頃は野心に燃え、年を重ねるにつれて守りに入る...そんな人生の縮図がパンタローネの中に凝縮されています。

一方、学識を誇るドットーレは、知識への渇望と同時に、それを鼻にかける傲慢さも併せ持っています。彼の姿は、知識を得ることの喜びと、それに溺れることの愚かさを私たちに教えてくれます。誰もが経験したことのある、「知ったかぶり」の心理がここにあるのです。

大言壮語の軍人カピターノは、私たちの中にある虚勢と臆病さを体現しています。強がりを言いながらも、いざという時に逃げ出してしまう...そんな人間の弱さを、カピターノは滑稽なまでに誇張して見せてくれます。

そして、観客の人気を独占する賢い下僕ザンニたち。彼らの中に、私たちは自分の機知や創意工夫を見出すことができるでしょう。アルレッキーノやブリゲッラといったザンニたちは、どんな困難な状況でも、知恵と機転で痛快に切り抜けていきます。彼らの姿は、私たちに「窮地でも希望を失わないで」と語りかけているようです。

これらの人物たちが身につけていたのが、仮面です。16世紀のヴェネツィアでは、マスケレーリと呼ばれる仮面職人たちが、細心の注意を払って仮面を制作していました。仮面は単なる道具ではありません。役者の魂そのものを宿す、生きた存在なのです。そして、私たち人間が日常生活で身につける「ペルソナ(仮面)」の象徴なのです。
社会の中で、私たちは様々な顔を使い分けていますよね。時に欲深く、時に知的に、時に強がりを...。コンメディア・デッラルテの仮面は、そんな私たちの多面性を鮮やかに描き出しているのです。

舞台上の役者たちは、仮面を着けることで自分の個性を隠しますが、逆説的にも、それによって人間の本質をより鮮明に表現することができます。観客は仮面の向こうに、自分自身や身近な人々の姿を見出し、笑いながらも深い共感を覚えるのでした。

即興が織りなす魔法の舞台
コンメディア・デッラルテの舞台にはもう一つ、特徴がありました。
それは、台本がないこと!!

役者たちが、観客と一体となって創り上げる即興劇の世界は、予測不可能性と生々しい現実感で人気を博しました。

まず、役者たちは「カノヴァッチョ」と呼ばれる大まかな筋書きだけを手にします。これは現代の映画でいうところの「シナリオ」のようなもので、場面の展開や主要な出来事が簡単に記されているだけです。セリフや細かな演技は、すべて役者たちの即興に委ねられるのです。

舞台が始まると、役者たちは自分の担当する「マスク(役柄)」に徹して演技を始めます。例えば、欲深い老人パンタローネを演じる役者は、その性格や癖を完全に理解し、どんな状況でもパンタローネらしく振る舞えるよう準備しています。

しかし、ここからが真骨頂です。役者たちは舞台上で、観客の反応を見ながら臨機応変に演技を変化させていきます。観客の笑いが大きければ、そのネタをさらに膨らませるかもしれません。逆に、反応が薄ければ、すぐさま別の展開に持ち込むこともあります。

この即興性が生み出す緊張感は、観客をも舞台に引き込みます。「次は何が起こるんだろう?」「あの役者は今の状況をどう切り抜けるんだろう?」そんなワクワク感が、観客の心を掴んで離さないのです。

さらに、コンメディア・デッラルテの即興性は、その日その場所でしか見られない唯一無二の舞台を創り出します。同じ筋書きでも、演じる役者や観客の反応によって、全く異なる展開になることもあります。まさに、その瞬間にしか存在しない「一期一会」の芸術なのです。

この即興性は、役者たちに高度な技術と才能を要求します。彼らは自分の役柄を完璧に理解し、どんな状況でも適切に対応できるよう、日々訓練を重ねています。また、共演者との呼吸も重要です。相手の予想外の動きに対しても、すぐさま反応し、自然な流れを作り出さなければなりません。

そして忘れてはならないのが「ラッツィ」と呼ばれる即興の演技です。これは予め用意された小さな芸や演技のパターンで、舞台が停滞しそうになった時や、観客を沸かせたい時に挿入されます。例えば、コミカルな転倒や、滑稽な物まねなどがこれにあたります。

このように、コンメディア・デッラルテの即興性は、役者と観客が一体となって創り上げ、綱渡りのようなスリルと緊張感に満ちていました。

ヨーロッパを席巻する人気
コンメディア・デッラルテの魅力は、瞬く間にイタリアの国境を越えてヨーロッパ中に広がりました。1570年代、フランス王シャルル9世の宮廷に招かれたイタリアの劇団は、パリの観客を魅了しました。洗練された即興劇と鮮やかな仮面劇は、フランスの貴族たちに新鮮な驚きを与えたのです。

特に有名だったのが、フランチェスコ・アンドレイーニとその妻イザベラが率いるジェローズィ一座です。1568年から1604年まで活動したこの一座は、ヨーロッパ中を巡業し、各地で絶大な支持を得ました。イザベラ・アンドレイーニは、その美貌と演技力で「イタリアの名花」と称えられ、フランス王アンリ4世にも謁見を許されるほどの名声を得ました。

17世紀に入ると、コンメディア・デッラルテの人気は最高潮に達します。1653年、フランスではコメディ・イタリエンヌが正式に設立され、パリに常設の劇場を持つことになりました。同時に、イギリスではシェイクスピアの作品に、スペインではロペ・デ・ベガやカルデロンの作品に、そしてドイツのバイエルン地方では民衆演劇にその影響が見られるようになり、ヨーロッパ全体の芸術シーンを豊かにしていったのです。

変革の時代と衰退
18世紀半ばになると、コンメディア・デッラルテは転換点を迎えます。長年人々を魅了してきた即興劇の形式に、陰りが見え始めたのです。
この変化の中心にいたのが、イタリアの劇作家カルロ・ゴルドーニでした。1750年代、ゴルドーニは従来のコンメディア・デッラルテの形式に疑問を投げかけます。彼は、即興劇から脚本に基づく劇への移行を提唱しました。ゴルドーニの考えは、より自然で現実的な人物描写と、社会風刺を含んだ筋書きを重視するものでした。彼の代表作『召使い二人』は、コンメディア・デッラルテの要素を残しつつも、より洗練された台詞と構造を持つ新しい喜劇の形を示しました。
これに対し、伝統派の旗手として立ち上がったのが劇作家カルロ・ゴーツィでした。1762年、ゴーツィは『三つのオレンジへの恋』を発表します。この作品は、コンメディア・デッラルテの伝統的な要素──即興性、仮面劇、奇想天外なプロット──を積極的に取り入れたものでした。ゴーツィは、ゴルドーニの「現実主義」に対抗して、幻想と寓話的要素を強調しました。

しかし、ゴーツィの努力にもかかわらず、時代の流れを止めることはできませんでした。18世紀後半、ヨーロッパ全体で「啓蒙主義」の思想が広まり、芸術においても合理性と写実性が重視されるようになっていました。即興的で時に荒唐無稽なコンメディア・デッラルテの形式は、次第に時代遅れとみなされるようになったのです。

さらに、コンメディア・デッラルテの特徴であった地方方言の使用も、国民国家の形成が進む中で障害となりました。各国で標準語の使用が推進され、地方色の強い言葉遊びは理解されにくくなっていったのです。

1780年代に入ると、古典的な形態としてのコンメディア・デッラルテは、その長い歴史に幕を下ろすことになります。しかし、その精神や技法は完全に消え去ったわけではありません。コンメディア・デッラルテの影響は、その後のヨーロッパ演劇や、さらには現代の演劇、映画、テレビにまで脈々と受け継がれているのです。また、現在において全くコメディア・デラルテが見られないということはなく、実は現在も続いているのです。

継承されるコンメディア・デッラルテ

コンメディア・デッラルテの伝統は、現代においても世界中で脈々と受け継がれています。イタリアのアントニオ・ファーヴァ、フランスのカルロ・ボーゾ、デンマークのオレ・ブレクケ、アメリカのジョアン・シュヴァリエなど、各国の著名な実践者たちが、この芸術形式の継承と発展に尽力しています。また、スペインのタリア・シアター、スコットランドのタッグ・シアター・カンパニー、アメリカのデル・アルテ・インターナショナルなど、世界各地の劇団が、コンメディア・デッラルテの要素を現代的に解釈し、新しい舞台を創造しています。

これらの劇団の公演は、伝統的な仮面や衣装、即興的要素を保ちつつ、現代の社会問題や政治的テーマを取り入れています。物理的な演技やアクロバティックな動きを重視し、時には音楽やダンスとの融合も図っています。観客参加型の演出を取り入れるなど、現代の観客にも親しみやすい形で提供することを目指しています。
こうした活動を通じて、400年以上の歴史を持つコンメディア・デッラルテは、今なお生き生きとした芸術形式として世界中の観客を魅了し続けているのです

日本でのコンメディア・デッラルテ

ご存知の通り、日本においてポピュラーとは言えないものですが、一部の演劇学校や大学のコースでは世界演劇史の一環として概要を学んだり、芸の幅を広げるためにエチュードに取り入れていることはあるようです。

また、劇団もあります。大塚ヒロタさんが主宰する「テアトロ コメディア・デラルテ」は、2006年から日本での公演を始め、2021年には「大地の芸術祭」にも出場を果たしました。公演活動だけでなく、ワークショップも開催されているそうです。

現代に息づく即興の精神
コンメディア・デッラルテの影響は、その後の芸術に多大な影響を与えました。モリエールやシェイクスピアといった巨匠たちは、多くのインスピレーションを得ました。20世紀に入ると、ダリオ・フォーやジョルジョ・ストレーレルといった演劇人たちによって再評価され、現代演劇に新たな息吹を与えました。

コンメディア・デッラルテの DNA は、テレビのコメディ番組や即興劇、ストリートパフォーマンスにも息づいています。また、アニメの登場人物などにもそのキャラクターのインスピレーションが使われていたりします。
400年以上の時を超えて、人間の本質を覗き見る旅はまだ終わっていないのです。

ふー!長かった 笑
ここまで読んでくださってありがとうございます。さて「これはパントマイムやクラウンとどう違うの?」と思われた方もいるのではないでしょうか。
次回はその違いについて、迫ってみましょう。

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