ひとりになれる時間を場所がないと人間関係がうまくいかない
ひとりになれる時間と場所は必ず必要だとずっと思っています。
そう思うようになったのは、ある程度大人になってからですが、
よくよく考えてみると、子供の頃から、いえ記憶にはなくても赤ん坊の頃からその必要性を感じていたように思います。
人って生まれ落ちてからずっと誰かと関わっています。
赤ん坊なんて、自分中心で回っているから自分の欲求が満たされなければ泣き叫んで満たさせようとするし、満たされればご機嫌になります。
大人があやせば必ず喜ぶとは限らない。
基本自分本位です。
大人の関与が「うざっ」っていうときも観察していたらなんとなくあるようです。
この「うざっ」という、もう関わってくんなという警告をふるに発動するのは、いわゆる思春期です。
この時期にひとりになる時間と場所が、なんかわかんないけど自分に必要だと感じてきます。
このときのひとりになる時間と場所の意味合いは、大人とそれとは少し違います。
かっこよく言うと、自分とは何かをもがきながら模索していくための時間と場所になります。
だから人から指図されたくないし、子供扱いして構われたくない。
そしてめでたく大人になっていくのですが、大人になればなるほど多様な人間関係が増えてきます。
でも生きて行くには、それなりに適応していくしかありません。
相手に合わせていろんな自分を演出しながら、社会生活を送ります。
独身のときは、わりと自由がきくので、ひとりになる時間と場所は確保されやすいと思います。
ひとり暮らしをしていたときなんて、ドアを閉めた瞬間、顔が能面になる自分がいました。
大人になると、自分の聖域がないとメンタルが持たなくなります。
ほっとするひとりの時間と場所が聖域です。
結婚するともっと必要になります。
それまでは、他者と自分の境界線がはっきりありましたが、
家族はその境界線がうまくひけない。
家に帰っても、家族としての関係性を維持するため頑張っちゃうんです。
家でもひとりひとり自分の聖域を確保したいものですが、
うちは住宅事情もあり、「トイレ」が聖域化していきました。
「トイレ」ほど無防備な自分を現せるところはありません。
だからいろんな意味で、「駆け込む」場所なんだなって思います。
ところが子供ができると、一気にその聖域をぶち壊されます。
なんたって後追いの時期なんていうのは、トイレにも泣きながらついてきます。
だからドア開けたまま用を足すことになり、
「いい加減にしてよーーーーーーー」と精神崩壊直前まで経験できました。
退職した夫が、妻の後をずっとついてくるというのも耳にします。
たぶん、
「いい加減ついてくんなーーーーー」っていう声が聞こえる気がします。
コロナ禍のとき、人とのつながりの大切さを再認識されていきました。
だから今、つながろうつながろうと外に外に意識を向ける人が多くいます。
ひとりになる怖さや不安がだれにでもあるとは思いますが、
ひとりになれる時間と場所という自分の聖域は、
陰にも陽にも振り回されていた自分をちゃんと真ん中に戻すためのものです。
いい人たち、楽しい仲間との時間であっても、人と関わることは人間として疲労するものです。
「疲れたら休む」この基本は心も同じ。
特に発達傾向にある人は、意識してひとりになり休んで疲れを取っていって欲しいと思います。
ひとりになれる時間と場所の聖域があるから、安定した人間関係が築けます。
必ず死守したいものです。