においは芸術になるのか? ――鑑賞者と制作者の視点
前回の記事では、いきなり「嗅覚芸術の定義」と銘打って、あたかもにおいが芸術としての地位を与えられているかのようなふるまいをした。実際のところ、においには芸術の地位どころか、日常生活での地位すら危うい。日常生活が衛生的になるにつれて、もはや普段は無臭の方がよいとされ、においは排斥されているように見える。
そのような現代の生活のなかで、はじめからにおいを芸術として考えることは難しい。本記事では、においを芸術として(あるいは、少しでも面白いものとして)改めて提示することを目指す。
1.芸術の価値づけ
それでは、においを芸術として考えるとき、そもそも芸術とは何なのか?
芸術の定義は様々だ。例えば、佐々木健一『美学辞典』では、「芸術」の定義は以下のようになされている。
佐々木によれば、芸術は美的コミュニケーションを指向する。
作品と制作者、作品と鑑賞者、制作者と鑑賞者、鑑賞者同士、制作者同士、作品同士、芸術体験で生じるコミュニケーションの形態は様々に考えられる(メディア論への接続も多々論じられている)。
筆者が考えるに、このようなコミュニケーションの間で生じる2つ以上の視点こそが、芸術を芸術として価値づける。最も分かりやすいのは、制作者の視点と鑑賞者の視点の交わりだろう。
制作者が自身の作品に感じることと、鑑賞者が感じることとは、本来的に異なる。創造するものと消費するものという対立があり、そうでなくとも違う人間なのだから、価値づけの基準が異なる。果物かごを見て、リンゴに注目するかオレンジに注目するかの違いのようなものだ。
そして、制作者からの価値づけと、鑑賞者からの価値づけの2方向からの推進力があってはじめて、1つの作品が芸術として上昇する。
参考に紹介すると、「価値づけとしての批評」を提唱したノエル・キャロルは、この2方向の視点からの価値づけを、「成功価値」「受容価値」と呼ぶ。
「成功価値」を重視すると、
一方、「受容価値」とは、
現代の芸術(あるいは、アート)では、「成功価値」よりも「受容価値」が重視され、解釈することこそ芸術体験の真髄であるかのように思われがちだ。しかし、2つの価値がともに認められている作品こそ、芸術として賛美されるに足るものだと筆者は考えている。
さて、このような芸術の価値づけのあり方を踏まえると、においは芸術として論じられるだけの価値を持っているのだろうか? すなわち、においは制作者と鑑賞者双方に価値づけされているのだろうか?
以下では、芸術としてのにおいの価値について、制作者の視点と鑑賞者の視点から論じていく。
2.制作者の視点
制作者の視点では、においが芸術作品の素材として、どんな働きをするのかということを考える。
においは、空間に充満する。これは音楽にも言えることだが、音楽以上に、においは発生源を特定しにくい。「音楽がただよっている」と感じることは少ないが、「においがただよっている」と感じることは多い。
そのような曖昧な、しかし確かに何かが空間にあるという感覚は、においが独自に刺激する感覚と言っていいだろう。
前回の記事でも触れたが、Michael Rakowitzのインスタレーションを例に挙げる。概要は以下のとおりだ。
Michael Rakowitzはニューヨークのチャイナタウンのビルを用いた展示《Rise》(2001)で、隣接するパン屋のにおいを会場内に流し込んだ。パン屋と会場を繋ぐダクトを通じて焼き立てのパンのにおいが充満するが、来場者は実際のパンを会場内に見つけられない。結果として、来場者はにおいを追って中国人住民が通うそのパン屋に出向き、ニューヨーク市内におけるジェントリフィケーションによっていかに中華系の人々が排斥されているかという現実を、中国人住民自身の目線で突きつけられることになった(Drobnick, pp. 349-350)。
概要を読んでわかるように、Rakowitzのインスタレーションは、パンの芳香を楽しませるだけでなく、チャイナタウンの危機的状況を暗示するという社会的な意図を含んでいる。
このように、制作者自身が何らかの意図・目的を持ち、それを表現するために作品がつくられる。それが制作者の意図をうまく反映できていれば、成功価値のある作品と評されることになる。
もう1つインスタレーションの例を挙げる。これも前の記事で触れたものだ。
Angela Ellsworthというアーティストは、Muriel Magenta のインスタレーションである「Token City」(地下鉄のシミュレーション)のオープニングレセプションに、自身の尿に浸したドレスを着て出席した。ShinerとKriskovetsによれば、彼女の意図は、においが視覚的な障壁を超越し、地下鉄内の社会的境界を取り除く過程を実証することだった(Shiner and Kriskovets, p. 273-274)。
Ellsworthのインスタレーションは、鑑賞者の側に立つと、尿のにおいで不快にさせられるばかりで、全くたのしい芸術体験とは言えない。しかし、制作者の視点からすると、このインスタレーションは成功している。
ShinerとKriskovetsによれば、会場内にいた人々は尿のにおいが美しいドレスをまとった女性から発せられるものとは分からなかった(Shiner and Kriskovets, p. 274)。Ellsworthの狙った「視覚的な障壁の超越」は、においによって達成されたのである。
RakowitzとEllsworthのインスタレーションの事例によって、においを用いた芸術が他の素材(絵画、映画、音楽、その他)では表現しきれない制作者の意図を過たず演出することに成功していると示せると思う。
3.鑑賞者の視点
鑑賞者の視点からすると、においを用いた作品から感じ取りやすいのは、第一にその芳香だろう。2.で触れたEllsworthのインスタレーションのように、よいにおいの作品だけがあるわけではないが、それは醜い絵画が芸術として成り立っていることと同じだ。基本的には、芸術作品とは快いものだと筆者は考えている。
その快さを感覚的にたのしむことが、芸術体験で最初に求められるべきことだ。作品に何らかの意味や文脈を読み取ってたのしむのは、いったんその作品の快さ(あるいは、不快さ)にひたってからのことだ。このことは作品への心的距離の問題に接続することもできるが、これは後の記事に頼むこととする。
さて、芳香の快さを感じること以外に、嗅覚芸術にどのようなたのしみがあるだろうか。鑑賞者の側に立ってもう1つ挙げるとすれば、それは「記憶の喚起」だ。
においは、嗅いだ瞬間一挙に私たちを覆いつくし、瞬間的に記憶のかなたから思い出を持ち帰ってくる。これは「プルースト効果」と呼ばれる現象だ。
重要なのは、「においによって呼び起こされる思い出」が人に強い情動を与えることだ。以下に「プルースト効果」の由来となったプルースト『失われた時を求めて』の一部を引用する。
『失われた時を求めて』の主人公は、紅茶にひたしたマドレーヌの味とにおいによって、レオニ叔母との懐かしい記憶を思い出す。それは今まで思い出されてこなかった、しかしこの瞬間に「素晴らしい快感」を伴って立ち返ってきたのだ。このような経験はだれしもあるものだろう。
このようなにおいによる記憶想起は、嗅覚的に快いものであるとともに、過去の自分との対面という意味で、意義あるものだ。過去の自分と対面することで、過去と現在の共通性を認識し、自己の持続を確認することができる。
自己同一性を確認することは、エリクソンが発達課題として提示しているように、人間の成長において非常に重要なものである。過去の様々な自己が現在の自己に収斂し、一個の人格が整えられていく成長過程は、実際快いものだ。
鑑賞者の視点から感じられる嗅覚芸術のたのしみとして、芳香の快と記憶想起の快を挙げた。どちらも絵画や音楽では示されることがなく、においに特有の性格を利用したたのしみだと言えるだろう。
4.まとめ
制作者の視点と鑑賞者の視点、双方からにおいを用いた作品の価値を考察した。
制作者の視点としては、空間に広がるというにおいの特性をいかし、他のメディウムでは表現できないような意図を表現するために、嗅覚芸術は独自の地位を与えられるべきだ。
鑑賞者の視点としては、芳香は嗅覚独自の快である。さらに、においを通じて記憶を想起することで、過去の自己と現在の自己の接続、すなわち自己の同一性を確認するという、人間の実存にもかかわる快い体験をすることができる。
これらの点から、においと、においを用いた作品を芸術として位置付けることに、ある程度の納得を与えられることができる(と嬉しい)。
参考文献
佐々木健一『美学辞典』p. 31, 1995
ノエル・キャロル『批評について 芸術批評の哲学』森功次訳, p. 75, p. 80, 2017
Jim Drobnik「Eating Nothing Cooking Aromas in Art and Culture」edited by Drobnic『The Smell Culture Reader』(Sensory formations series), pp. 349-350, Berg, 2006
Larry Shiner and Yulia Kriskovets「The Aesthetics of Smelly Art」The Journal of Aesthetics and Art Criticism 65:3, 2007