メモ:動乱時代(ロシア)
この記事はタイトルにもある通り学習上作った資料みたいなもの。旧アカウントでは近いことをしていたけど、本稿はバルカン史でもないし、理解度がバルカン史以上に浅い状態で学習のために書いているので、あんまり正鵠を射る説明をしていない可能性がある点に注意。いちおう読んでいる資料は良いものなのでロシア史に興味がある諸賢は目次より参考文献欄を参照するべし。関連本を読んで知識がついたら随時更新するつもり(つもり)。
リューリク朝断絶からシャホフスコイ蜂起まで
ゴドゥノフの治世
ロシアに中央集権体制を齎したイヴァン4世雷帝の後継者フョードルは、統治能力のない人物だった。実際には彼の義兄に当たるボリス・ゴドゥノフが実権を握り、フョードルが没する1598年にはゼムスキー・ソボル(全国議会)を招集しツァーリ(皇帝)として選出された。
彼は91年にクリミア・タタールの侵入を防ぎ、シベリア方面へ拡張。ポーランドによる侵攻を未然に防いだ上、スウェーデンからは領土の取返しにも成功した。また89年にはモスクワ府主教座を総主教座に格上げし、ビザンツ滅亡後にして唯一の正教帝国となった。
また内政面では97年11月24日の法令によって過去5年間に逃亡した農民は捜索し旧主の下へ連れ帰すよう定めたことをはじめに、ポサード(商業地区)の建設や国税を負担するポサードが大領主の庇護下に入ることを防いだり、雷帝の治世下で疲弊した国家の回復に力を注いだ。
偽ドミトリー1世による侵攻
1601年、ロシアの地を3年に及ぶ大飢饉が発生襲った。ゴドゥノフは穀物の固定価格制設定、困窮者への補助金、領主を養えない農民にそのもとを去ることを許すなどこれに迅速かつ全力で対応したが、焼け石に水で事態の解決には至らなかった。
ロシアが飢饉で大打撃を受ける中、1602年秋ごろに隣国ポーランドで「自分こそが真のツァーリで、ゴドゥノフは帝位簒奪者だ」と主張する人物が現れた。偽ドミトリー1世である。
彼が自称する「ドミトリー」とは雷帝の子にしてフョードルの異母兄弟のドミトリーであるが、彼は8歳の頃(1591年)に事故死している。これはゴドゥノフによる暗殺説もあり真偽は定かではないが、偽ドミトリー1世が偽物であることは確かである。
偽ドミトリー1世は1604年秋、ポーランドのシュラフタ(中小貴族)や無法者、傭兵、コサックら数千人を率いてロシアに侵入した。偽ドミトリー1世軍は決して強力な軍隊ではなく、数多の死者を出し敗走することもあったが、大飢饉に苦しむ農民や地方都市民は新たに訪れた「真の皇子」を喜び、ロシアでもゴドゥノフが病床に伏し05年4月30日には没してしまった。これを受け政府軍は完全に瓦解、6月20日には偽ドミトリー1世がモスクワに入場、ツァーリとなった。
シュイスキーとシャホフスコイ
しかし何の後ろ盾もなく場当たり的で浪費的な統治を続ける偽ドミトリー1世に支持は集まらず、彼の政治は彼に付き従っていたポーランド人やコサック、モスクワ住民から大反発を受け、ドミトリー政権はわずか11ヶ月でアレクサンドル・ネフスキー(リューリク家の一員)の弟に発する名門貴族、ヴァシーリー・シュイスキーらによるクーデターによって倒れ、ドミトリーは殺害された。
しかし、リューリクとの血縁関係こそあれど同家にはツァーリの輩出経験がなかった。さらにこのほとんど簒奪に近い即位過程はシュイスキーの正統性を低下させ、多くの僭称者が現れた。また、南西ロシアにおいても大規模反乱の危険性が高まってきていた。
反乱を開始したのは、現ウクライナ北部プチヴリの軍事司令官シャホフスコイ公であった。1607年夏にはこの中から新たな指導者ボロトニコフが出、10月には彼らの軍はモスクワを包囲するにまで至った。しかし農民とホロープ(奴隷)からなるボロトニコフ軍と反政府士族層は意見の一致をみず分裂、ボロトニコフはモスクワ南方トゥーラで包囲され同年秋には捕らえられた。
偽ドミトリー2世からロマノフ選出まで
偽ドミトリー2世の登場
偽ドミトリー1世が倒れて間もないころ、実際にはツァーリ・ドミトリーは生きているという噂が流れ、1607年には南西ロシア・スタロドゥブに偽ドミトリー2世が現れた。
偽ドミトリー2世は秋にはシュラフタ、傭兵を加えてボロトニコフを救助すべくトゥーラへ向かった。しかしボロトニコフが降伏したことを知ると翌08年にモスクワへ転進、6月にはモスクワ郊外トゥシノを本拠地として1年半の包囲戦を開始した。
外国勢力の介入
同時期、シュイスキーの要請によって1609年5月にスウェーデン軍が北方から偽ドミトリー2世を攻撃、支配地域北部を攻略する。スウェーデンの参戦は皇太子のロシア皇帝即位への第一歩、またポーランド王のツァーリ即位阻止を意図したものであったが、同年晩夏、ポーランド王ジグムント3世は軍を率いて直接ロシアへの進撃を開始した。
ポーランド軍は9月にスモレンスクを包囲するが、他方で偽ドミトリー2世のトゥシノ戦線にいたポーランド人がスモレンスクへ移ったためトゥシノ軍は崩壊し、南方へ撤退。しかし体制を立て直しその後一度モスクワに押し寄せた。この再攻勢のロシアに対する影響は大きく、モスクワで戦いのあった1610年7月にシュイスキーはクーデターによって地位を追われ、セミボヤールシチナ(七人貴族会議)による政権が成立した。
また同年、ポーランド軍はクルシノの戦いで大勝し、勢いそのままにモスクワへ入場。そのまま偽ドミトリー2世の軍勢をも追い払い(これにより偽ドミトリー2世は暗殺された)、セミボヤールシチナとの協定によってポーランド王子ヴワディスワフが正教に改宗した上で帝位に就くこととされ、ジュルキエフスキ麾下の軍隊がモスクワを占領した。
協定に従いヴラディスワフを王位につけるべく、モスクワからロストフ府主教フィラレート、貴族ヴァシーリー・ゴリツィンが送られたが、ジグムント3世は自らが帝位に就くことに固執し、最初から交渉のつもりはないことを明らかにした。
国民軍と外国勢力の対決
その間、ロシアを占領するポーランド軍は次第に横暴な態度を示すようになっていった。住民の間で不満が高まると蜂起が発生するようになり、1611年3月の蜂起後にはポーランド軍はモスクワの中心部であるクレムリン、キタイ・ゴロドを支配するのみになっていた。11年始以来ニジニ・ノヴゴロドやヴォログダといった諸都市が反ポーランド闘争を呼びかけ、2月から3月にはリャザン司令官のリャプノフによって第一次国民軍が結成された。
第一次国民軍には偽ドミトリー2世軍崩壊後にロシアを放浪していたコサックや士族が加わり、3月にはモスクワを逆包囲した。また、士族を束ねるリャプノフ、コサックを率いるザルツキー、トゥシノ軍にいたベツコイ公などが利害を調整し6月に「全土の決定」と称されるロシアの統治方針を設定したが、リャプノフがコサックに殺害されると途端に瓦解、モスクワ郊外はコサックの跋扈する危険地帯と化した。
また、6月にスモレンスクが降伏した他、かつて同盟関係にあったスウェーデンもロシアの領土に侵攻し、ノヴゴロドを占領。ノヴコロド市民にスウェーデン王子カール・フィリップをツァーリとして受け入れるよう誓わせた。
情勢を受け、ニジニ・ノヴゴロドで再び国民軍を結集する動きが発生した。同市の商人であるクジマ・ミーニンの呼びかけによって11年9月に第二次国民軍が発足した。ミーニンは寄金・兵士を募りつつ私財を擲って武器弾薬を調達し、諸都市に呼びかけを行った。司令官には3月の蜂起に参加したポジャルスキー公が選出され、第二次国民軍はモスクワを目指し進軍、モスクワ周辺をさまよっていたコサックは国民軍と到着が噂されていたジグムント3世軍に怯え南方へ逃亡、ないし国民軍に合流した。
国民軍はモスクワのポーランド軍を破り、勢いのままモスクワを包囲。10月22日にはキタイ・ゴロドを奪い、26日にはクレムリンに籠城するポーランド人部隊が降伏しモスクワはロシア人によって奪還された。
新たなツァーリの選出
1613年2月、ゼムスキー・ソボルが招集され空位となっているツァーリを選出する会議が開催された。高位聖職者、貴族、宮廷官、地方名士、コサックなど総勢700名が列席した。ここで選出されたのは、雷帝の最初の妻を輩出したロマノフ家の若き後継者、ミハイル・ロマノフであった。この時わずか16歳である。
彼が選出された背景には、彼の父フョードルがポーランドの捕虜となっていたことが同情を買ったこと、若く大人しいミハイルは扱いやすいと思われたことがあげられる。
こうしてロシアにはロマノフ朝が成立し、これは革命によって1917年に倒れるまでの間存続し続けた。最後に彼の初期の治世についてだが、サルティコフ家、ムスチラフスキー家などの寵臣が政治の実権を握っていた。しかし、1617年2月にスウェーデンとの和平によってゴドゥノフが奪った東カレリア、イングリア(インゲルマンランド)、賠償金二万ルーブリの支払いの代わりノヴゴロドの返還とツァーリの承認を得た。翌年にはポーランドとの和平が成立したが、スモレンスクの奪還、ツァーリの承認は叶わず、成果は父フョードルの返還にとどまった。
参考文献
和田春樹 編『ロシア史(新版世界各国史22)』山川出版社、2002年。
伊東孝之、井内敏夫、中井和夫 編『ポーランド・ウクライナ・バルト史(新版世界各国史20)』、山川出版社、1998年。
土肥恒之 著『ロシア・ロマノフ朝の大地(興亡の世界史)』講談社、2016年。
百瀬宏、熊野聰、村井誠人 編『北欧史 上(YAMAKAWA Selection)』山川出版社、2022年。
ピエール・パスカル 著/山本俊郎 訳『ロシア史(文庫クセジュ469)』白水社、1970年。