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11月8日:お誕生日
書いてる途中に友達が来たもので大幅に遅れてしまった。今日あったことではないけど、近くに考えたことについて。
3日のことだが、どうやら僕は大人になってしまった。いや、大人になってしまったという物言いは実態を表すものではない。子供という地位にいられなくなってしまった。
ほんとうは3日に日記を書こうと思っていた。それも、結構前から。大人になってしまうんだから、何か思うところが浮かんでくるだろうという風に思っていたわけだ。しかし、どうやらこの見立ては完全に筋違いなものだったらしく、感慨というものが全くなかった。大人になったという感慨を得るどころか、依然として、幼さ、稚拙さというものが僕の腹の中でふんぞり返っている。まだ自分こそがこの体の主人であると言わんばかりに。
ずっと大人になるということが怖かった。10歳くらいの頃には既に、自分のようなくだらない人間が社会的に独立した存在として扱われることに恐怖心を抱いていた。
しかし、これもまた陳腐な体験だが、8年間恐れ続けてきた大人というものにいざなってしまうと意外とあっけないものだ。結局、経済的自立とか、精神的自立とかいった実態が問題なのであって、僕をプロファイリングする紙が僕のことを大人と言おうが子供と言おうが、僕はただひたすらに僕であることしかできない。冷静に考えればあまりにも当然のことだ。しかしどうか、この不合理的態度を許してほしい。僕のような無能力なものにとっては、これは全く冷静ではいられない問題だったのだ。
自分には完璧主義的なところがすごくある。まあ、普通の人生というものを全く歩めていないから、これ以上の逸脱が怖いんだと思う。理性の部分は自分の異常性というものをもう認めきったぞという態度でいるけど、動物的な感情とか、実感の部分は未だそういった段階にはいない。
僕にとって形式的な意味において大人になるということは、そこまでには実態を伴ったそれを作らなければならないという門限として位置づけられていた(つまり、大人になるまでには、大人を完璧にしていないといけないと思っていた)。それを達成できないものは普通ではなくて、無能力で、社会不適合であると罵られるものだと思っていた。そこはいくら自嘲癖をものにした自分でもちょっとした恐怖の対象だった。
でも、未だ中身が伴っていない自分は何ら批判されていないから、本当はそんな厳しいものではないようだ。それぞれが実態として大人になる時期をもっているのであって、形式的な大人、ああ、こんなものはあくまで社会や政治の作為として存在するものでしかないということを知った。また一つ大人になった。