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10月11日:階段を駆け上がる

日のうちに投稿できなかったけど、まあ誰も読んでないだろうし気にしないこととする。

詳述は避けたいが、今自分はある所属組織においてそれなりの、構成員を大体統括するような立場にいる。他方、別の所属組織においても同様の立場にならないかという打診を受けている。他の適任があまりいない一方忙しくなるので悩ましいところだが、実際の決定まで2か月強の猶予があるので、まだ検討の段階にいる。

それがたとえ消去法だったとしても、頼られてしまったら期待に応えなくてはという精神が働くのが人間という生き物だ。実際、今首長を務めている組織においても、自分以外の適任はいないから、君にしかできない仕事だからと言われ就いたものだ。当然そう言われたからそうかもと思っただけではなく、実際に適任がいなかったので仕方あるまいと就いた部分が大きいんだけれど、やっぱり言われたからにはという精神もある程度は介在している。

しかし改めて内省してみると、このような事態は僕の今までの人生から見れば甚だイレギュラーなことだ。僕は今まで人を使う経験なんてしたことがないどころか、そもそも僕は、なんらかの目的を持った組織の一員として活動するといったことが全く苦手な性分だったはずなのだ。そしてその自覚は今もなお変わっていない。立場の変化に精神が全く追いついていないが、なってしまったものは仕方ないと脳が心に無茶ぶりを仕掛け続けている。そういう数年間を生きている。

こうやって社会性を獲得していく(できているかは怪しい)際に「大人の階段」なんて言葉がよく使われるが、ある意味、僕はこの階段を駆け上がっている。今まで不登校児で他人とのコミュニケーションもてんでだめ、人を取りまとめるなんて無理難題だといった始末の青二才だったのが、今や(大して能力が強化されたわけでもないのに)人を取りまとめているわけだから。

しかし、陳腐な台詞だが、この経験が将来の自分にプラスに作用することは考えうるだろう。「大人の階段」というメタファーはよくできていると思う。足腰の弱い状態で階段を駆け上がることは、その人にとっては負担になる。しかし、ある程度を上りきって、一定の平穏までたどり着けたならば、足腰は鍛えられ、その先の道を容易なものにしてくれる。

今の自分は、うまくいっているとは言い難い部分も大きい。人を取りまとめるとはどのようなことか、組織を統括するとはどのようなことか、人を怒るとは、人を頼るとは、人に頼られるとは。毎日多くの疑問と不安を抱えながら生きている。しかし、この疑問と不安が人生の足腰を強くしてくれるものになるのではないかと、そう期待している。

なんだか暑苦しい雰囲気を漂わせてしまった感もあるが、実際そこまでハードなことをやっているわけではない。ただ自分はスタートが他者よりも圧倒的に遅くて簡単にキャパオーバーしてしまうから不安に思っている、というだけのことだ。普通の人なら難なくこなせるような、虫の一歩に等しいものだろう。しかし、普通の人にとって虫の一歩に等しいような幅でも、虫である自分にとってはまごうことなき一歩なのだ。この一歩を自分くらいは肯定しないと、僕のような虫は人間社会で暮らすことはできない。今日はそういう自励、鼓舞の日記。たまにはね。

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