すべては組曲から(Re)スタートした――親はVIPPER バーチャルYouTuberに出会い、現在まで
2019年に開催されたイベント、ニコニコ超会議。
そこでは、ニコニコの歴史や知識を問うテスト、超ニコニコ歴史検定が行われていた。
一定以上の点数で手に入る認定バッチが手に入る。
そんな検定で筆者は見事一定点数以上を獲得していた。
今やVTuberの専門家になってしまった筆者。
なぜそこまでニコニコの歴史を知るようになったのか、どうして筆者がバーチャルYouTuberと出会ったのか。改めて紐解いていこうと思う。
ニコニコ動画との出会い
私がニコニコ動画を始めてみたのは2007年から2008年ごろだった。
父はいわゆる「VIPPER」で掲示板サイト・2ちゃんねるのコテハン使いだった。
私の人生は父がVIPPERだったことで後に狂わされていく。
黎明期のニコニコ動画のユーザーは2ちゃんねるの管理者であった、ひろゆき氏らが2ちゃんねるの掲示板に大量のサイトを宣伝するレスを投稿したことが起因し、VIPPERが大量に流入したと聞く。
恐らく父もその1人だった。
当時、小学生だった私は父が「面白いぞ」と豪語するニコニコの動画を見せてもらっていた。これが最初のニコニコ動画との出会いだった。
ニコニコ動画の動画にハマる……が……?
私はそうして親がいる状況下で、親のPCを借りて、ニコニコ動画のMAD動画に夢中になっていた。
特に2008年ごろにハマったのは「ドナルドのうわさ」「ムスカ」「人類滅亡シリーズ」「MUGEN」。
消防だった私は当時コメントの仕方もわからなかったので、ROMが基本だった。
しかし、ニコニコ動画には当時壁があり、アカウントがなければ動画が視聴できないという問題があった。
当時、父は家にいない時間が多く、日中に母からPCを借りて動画を見ようとするとYouTubeしか見ることが出来なかった。
そうしてYouTubeが私の中で定着していき、家庭環境が悪化すると、父からPCを借りることもなくなり、ニコニコ動画のカルチャーに触れない時期が訪れる。
時々によっては、YouTubeでニコニコ動画の転載動画を見ることもあった。
しかし、ガラケーを渡されてもインターネットを使えない私は自由にアカウントを作成することが出来なかった。
母のアカウントを使わせてもらっていた時期もあったが(2011~2012頃?)、パスワードが分からなくなり長持ちはしなかった。
スマートフォンを貰ってニコニコ動画に登録 響く「オワコン」の声
スマートフォンを購入することが許され、ニコニコ動画にようやく自身のメールアドレスでアカウントを持つことが出来たのは2013年。
時代はQからGINZAへ移り変わったすぐのころ。
当時はおそらく「進撃の巨人」が一大ブームを築いていた。
「やっと自分のアカウントで見れる」。「こういうMADが見たかったんだよ、やっぱニコニコ動画って面白いんだ」。
そんな純粋無垢な気持ちを抱えてニコニコ動画を見ていく。
しかし、右から左に流れていくコメントには「オワコン」の言葉の数々が刻まれていた。
やっと見れるという希望を抱えていた中学生には少し重たい言葉だった。
Re:組曲から始めるニコニコ動画
「自分がしっかりと見れていない間のことを学ぼう」。
そんなオワコンという言われる理由を探るためだったか、自然と築いた「半年ROM」の精神は、おもむろにニコニコ大百科を読んだり、過去人気だった動画を見る方向に向く。
そんな中で見つけたのがしも氏の「組曲『ニコニコ動画』」だった。
「なんだか聞いたことある」
「だけどなんか懐かしい」
「めっちゃ興奮する」
当時抱いた感想はこんな感じだった。そして、「組曲」は青年に対して十分すぎる影響を与える。
「組曲」は、2007年当時に流行していたニコニコ動画の流行を多く反映しているメドレー作品なのだが、私はその元ネタを見続けた。
「ニコニコ動画流星群」「七色のニコニコ動画」「ごっちゃに!」。
そして、青年はニコニコ動画のメドレー作品を見つけては、ニコニコ動画にのめりこんでいく。
東方Project、アイドルマスター、VOCALOIDの義務教育を終わらせ、数年後にはニコニコ動画の歴史について、歴戦のニコ厨と変わらないレベルになった。
メドレーを作るように~挫折
2014年頃にはメドレー作品の作者コミュニティとも交流を持つようになり、段々と自分でもメドレー動画を作りたいと思うようになった。
だが、DTMはかなりハードルが高く、私は一度たりとしっかりとメドレーをつくったことはない。
当時高校生の私は原曲同士をつないでNon-Stop Mixのような動画を何本か投稿し、威張っていた。出来はよくなかった。今は反省している。
そして、過ちをする。「ニコニコ動画十年一昔」。
私が主導したニコニコ動画10周年を記念したメドレーの合作作品だ。
当時新進気鋭のメドレー作者を多く集わせ、作品を作らせた。
報酬は無償。
自分は当時のVOCALOID10万再生以上の動画すべて、ジャンル問わずニコニコ動画で人気だったネタなどをすべてリスト化させ、選曲候補を作成。
ロゴの依頼や人との連絡をする橋渡し約を中心に行っていた。
本来は自分も作る予定だったが、「時間がない」と言い訳に自分が作るパートを廃止した。
5年以上たち、大人になった私は。なんて馬鹿なんだろうと今では思うが、当時の私はそれがわからなかった。
私はそれをきっかけに掲示板で叩かれ、一時Twitterアカウントも削除。
メドレーから距離を置くようになった。
今は申し訳ないと思っている。
布石
ただ、この「ニコニコ動画十年一昔」は現在のキャリアの布石になっている。
1つはランキング動画制作者になり、2つ目はキズナアイとの出会ったことだ。
ランキング制作者に
「ニコニコ動画十年一昔」の経験はひとつの考えを浮かばせた。
「このニコニコ動画の今を保存したい」という壮大な発想だ。
これが10年にわたってニコニコ動画の今をランキングとピックアップで伝え続けた「週刊ニコニコランキング」の8代目制作者になることを望むようになり、ニコラン編集部の門を叩くきっかけになった。
私はこれを契機に後に「週刊アイドルマスターランキング」の制作者にもなり、ニコニコ動画よランキング制作者としてニコニコ動画を支えた。
一時期は運営からランキング制作者やコメントアート作者が召集され、交流会で運営に意見することもあったし、Slackで意見を求められたこともあった。
現在は第一線から退いているが、繋がりは消えていない。このランキング制作者としての経験は、現在は本職の音響関係の仕事に活かしている。
キズナアイとの出会い
「ニコニコ動画十年一昔」の選曲候補を作成中、ニコニコ動画だけでなくYouTubeを見ることがあった。
その時に関連動画に現れたのがバーチャルYouTuber(VTuber)のキズナアイだった。
キズナアイを最初見たとき、すぐに言葉にならなかったのをよく覚えている。
登録者数もさほどいなかったキズナアイを見て、「こういうコンテンツが見たかった」と思いつつ、まだニコニコ動画に投稿していないキズナアイを見て「ニコニコ動画なら流行るのに」という気持ちを抱えていた。
その予知は1年後見事に当たる。
ただ、全く予想も出来なかったのはキズナアイに似た存在がたくさん現れ、VTuberブームを築くことだろう。
ニコニコ大百科を編集するように
元々何かを書くことは好きだったのだが、ニコニコ大百科はその好きを倍増させるきっかけになった。
メドレー関連の記事を作成するためにニコニコ大百科を編集しはじめた私は、その面白さにのめり込んだ。
代表作は「メタル桃子」「Eve(VTuber)」などなど。
その様子はなぜだか、ニコニコニュースのライターの目に止まり、私は2020年にニコニコニュースオリジナルというニコニコのメディア媒体でライターデビューをする。
現在は本業とVTuberを主軸としたライター/ジャーナリスト活動が活動の重きになっており、公私共にニコニコの話題について触れることは少なくなってしまった。
しかし、今でもふとニコニコに帰ってくることがある。
動画を見たり、大百科を編集したり、時に息抜きに動画を作ることもある。
もしまたニコニコ関連で本格的に活動することや、仕事の依頼があれば貪欲に取り組んでいきたいと思っている。
締めは私が好きな曲を貼ることでこのnoteを〆ようと思う。乙!
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