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2025 2 山陰美食街道
此の程に思う定めし出立は
けふきくこそ嬉しかりける
辞世の句はないが絶筆の句がある。
義父が亡くなり登記変更のため戸籍謄本を取り寄せた。義父は東京生まれだが本籍は萩市須佐のままにしていた。司馬遼太郎の本に祖先の名があるのを見せてくれたことがある。
住民票のある法務局に遺産分割協議書と戸籍謄本を提出した。後日法務局から連絡があり戸籍謄本に不備がある、という。出向いて話を聞くと戸籍謄本の記載に漏れがある、との指摘だった。
戸籍謄本は萩市役所と郵送で済ませていたが、漏れている期間を説明するため萩市役所に行くことにした。話をすると直ぐに足りない戸籍謄本を準備してくれ用事は直ぐ済んだ。
せっかく萩に来たのだから松下村塾と伊藤博文の生家を見学して日帰りした。
吉田松陰は日本史で知っていたが、松陰神社内にある事績を読み吉田松陰がいなければ明治維新はなかったかもしれないと思った。
吉田松陰の狂わんばかりの愛国の思い、国防への憂い、幕藩体制への批判、を知った。松下村塾は世界遺産になっている。
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前回行かなかった本籍のある須佐がどんなところか見たかった。須佐は遠い昔 今熊野神社の祭神として祀られるスサノオがいたところだ。ランチを食べた。
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福岡の呼子イカより透明で鮮度が高いと思う。
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当日は強風で波高く荒れる日本海だった。
義父は戸籍謄本を読むと長州藩士の家系だが東京生まれで中学生の時に両親を失くしている。14歳で家督を相続したと書いてある。あまり語る人ではなかったので両親をどうして失くしたのか分からない。不穏な時代だったのは確かだ。義父は授業料が免除されるという理由で東京商船大学に入った。徴兵間際で終戦となった。
戦後は貨物船の乗組員から船長になりインド入港の際現地で反乱が起き船を緊急で出港させたと私に語っていた。嫁によると義父の話を聞いてくれるのは私だけで私が来ると楽しそうだったという。一年半家に戻らず欧州方面で貨物の輸送に携わったりした時もあったそうだ。パナマ運河やスエズ運河を通過すると土産物屋がありそのとき買い求めた珍しい土産物が家にある。
一時は原油の輸送でタンカーに乗り込み鹿児島喜入の原油貯蔵基地の往復。後半は日産の自動車をアメリカへ輸送。日本の経済成長によって積荷が変わっていったみたいだ。義父は使うところがないので兎に角年金にお金を回した。受け取る年金額は私と嫁の合計より多い。
24時間休みなく気の休まる暇もない仕事だったと語っていた。
医者が嫌いで医者に行かなかった。船医がいるが具合の悪い船員がいて途中寄港して現地の医師に受診を勧めても船医は応じず船員が亡くなってことがあって医者は全く信用していない。
寡黙な頑固一徹な感じの人だったが我慢することが苦手な人だった。よく義母に当たっていた、義母も心得たものでダイニングテーブルに義父にいる間は近付かないように気をつけていた。義父は老衰で眠るように新しい家が完成する前に亡くなった。
97歳だった。
新しい家を建てる理由は相続税対策があった。横浜駅と新横浜駅の間にあるかなり広い敷地を持つ家は義母が見立てて購入した。建売りとして販売したものを購入したと義母は言う。何か対策しないと相続税が大変だと思い同居するために義父のお金を利用して義父の名義で建てる予定だった。登記変更は嫁にせず義母にした。相続税は同居しているかどうかが控除のポイントになるからだ。
土地建物は義母に相続させ預金証券は嫁に相続する遺産分割協議書を作成し法務局に提出した。そうしないと義母からの相続のとき、より多額の相続税が課税されると困るからだ。
登記変更と相続税の計算と提出は全て自分がした。メーカーの営業で原価計算して売価を算出していた経験から難しくなかった。しかし、定年してから最も頭をフル回転させた。
義父は須佐に来たことがあったと思う。義母や嫁は須佐には来たことがない。今は寒村の漁港だが長州藩のときは北前船が入港していたようだ。
益田に宿泊した、益田は毛利氏の家老だった。須佐も益田氏配下にある。
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日本酒の十四代があった、森伊蔵がグラス一杯1500円という破格の値段だった。客は地元の人といった感じだ。刺身のはまちは普段知る養殖ではなく歯応えのある天然ものだ。はまちの本当の色と味はこういう魚だと知った。客はこんな贅沢な食事を楽しんでいるのかと羨ましく思った。
余談だが森伊蔵とは父親の名を商品名にしたものだ。大阪で就職した息子が故郷垂水に帰り、酒造を継いで森伊蔵を出しブームを呼んだ。
益田から出雲にかけてオレンジ色の屋根瓦が目に付くようになる、石州瓦だ。翌日は島根県立石見美術館を見た。
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石岡瑛子の展示があり見入ってしまった。しかし、汽車の時間があり早々に美術館をあとにしたのは心残りだった。
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出雲市に着いてそばを食べた。本格的な美味しいそばだった。
出雲市駅には父が言っていた話を思い出す。脳梗塞で私と違い半身が不自由になった父は不自由な体で全国を見て歩く旅を始めた。高等小学校を出た父は15歳から地元福島の小高で船大工として働き始め誘いもあって上京し小田急線の分離する駅で家を建てる大工として働き始めた。ずっと現役で働いていたが70半ばに脳梗塞になり仕事を辞め旅を始めた。
無学だが地理が好きだった父は漸く自分の時間を過ごすことを決めた。地域にある木造建築物を見ることを主な目的に行き先を決めていたようだ。大工という仕事から建築物に興味があったようだ。錦帯橋を見たと言っていた。会津に栄螺堂があるが創作意欲が湧いたのだろう全く同じミニチュアの栄螺堂を自分で作って置いてある、形見となった。
ある時新横浜から下関に着いた父は山陰本線で出雲市駅で降りた。出雲大社を見るためだったと思う。すると切符が無いことに気づいた。何処かに落としたと思った父は改札口へ戻ると学生が声を上げて「 おじさーん ! 切符、切符 ! 」と言って切符を渡してくれたという。
父は亡くなったとき医者の診断では肺癌と言ったが私は肺癌ではなく肺気腫だったと確信している。自宅で療養して月に一度病院を受診し付き添いで一緒に行ったときに聞いた話の一つで旅の思い出を楽しそうに話していた。
日本は長い間欧州やアメリカが使用を禁止したアスベストを禁止しなかった。その犠牲だったと思っている。
ただ89歳で亡くなったので丁度良い頃合いだった。
アスベストは大分遅れて使用が禁止されたが同じ例でマーガリンがある。欧州やアメリカでは動脈硬化を引き起こすとして使用が禁止されているが日本では普通に菓子パンに使用されている。政府はなんとか国民の寿命を縮めるためにマーガリンの使用を認めているのかと穿って見てしまう。
出雲大社は二度見ているので今回は行かず松江城を見ることにした。
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まだのどぐろを食べていなかったので最後にのどぐろを食べに出雲市まで戻った。
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のどぐろの大きさが大小あり値段が違う。下から2番目にしたが、次はもう少し大きなのどぐろを食べてみたい。
Daigoの所縁、竹下酒造「 理八 」と共にのどぐろを食す。
美食と義父、父を思い出す旅になった。