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まぁまぁの人

まぁまぁ、なんとか無事に生きてきた

父と義父を見送った。母と義母を見送るだけだ。90代半ばで認知症もなく介護が必要だけどいつまでも元気な母と義母に負けないように元気でいないといけない。

2021年9月に脳梗塞を発症した。幸いカテーテル手術が上手くいき後遺症はなかった。
危ないところだった、見送るのに見送られてはいけないのだ。

子供の頃はもっと裕福な家なら良かったのにとか、秀才の頭と私の頭を取り替えたいとか、そんなことばかり考えていた覚えがある。

初めての集団生活は小学校からだった。弟が幼稚園に行ったことを毒づかれたと母は言った。

父の出身は福島の相馬で15歳から船大工として働き始め、暫くして神奈川に家の大工として仕事場を移した。

1951年昭和26年23歳の時に小田急線が分岐する駅の近くに広めの土地を借り家を建てた。
同郷の母と見合い結婚して1955年昭和30年に私が生まれた。

結婚して暫くは差配する親方の元で仕事していたようだ。東京タワーの土木工事をしていたと聞いたことがある。当時のことを母は苦しい出来事として語る。

やがて一人親方として独立して家を受注し請負で仕事を始めた。家にはベニヤ板の建築許可証が30〜40枚ある。

契機となったのは小田急線と国鉄が交わる駅の大地主の方と出会い、土地に建てる家を全て父に任せてくれた。どうした出会いだったのか分からない。大地主の方は父を気に入ってくれたと思う。

安藤忠雄は好きな建築家だ。彼の人生を振り返る言葉に
「 14歳の時一心不乱に働く大工さんの姿を見て美しいと思った。その時一心不乱で働きたいと思った。」
とある。

大地主の方も父に同じような感情を持ってくれたのかな、と思う。

父は無口だが一心不乱に働いていた。子供の時はなかなか遊んで貰えなかった。珍しく早帰りして弟と二人すすきの穂が赤く染まった秋、家の近くの周りを散歩に連れて行ってくれたのが大切な思い出だ。

そんな一心不乱に働く父の子供が学校を出て中堅のメーカーに就職し全く知らない土地、大阪勤務を命じられた。

加えて人付き合いが苦手なのに営業を命じられた。途中人事異動で東京勤務となり大阪とは違う事業の営業を続け、50代で閑職に追いやられたが定年まで勤め上げ、再雇用で2年勤め母の介護で退職した。

父と義父の登記変更と相続税の申告手続きを自分でしたので自分なりに資産の考えがある。

年金生活を過ごしていますが、振り返ってみると苦しみこそ最大の財産だったな、と今思います。
成長期だったり現役の時抱えた、苦しみ悩み困難、が楽しい想い出になっているからです。

肥料

あの時の あの苦しみも あの時の あの悲しみも みんな肥料になったんだなぁ 自分が自分になるための 
みつを

トリップアドバイザーに口コミを投稿していたが最近飽きてしまい、代わりにNoteにあれやこれや書いてみようかなと思っています。






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