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映画「首」〜セカイ系、赤、男色〜

北野武監督の映画「首」を観てきた。

僕はこの映画が好きだ。AmazonプライムやNetflixで配信され始めたとしたらもう一度観てみようかなと思うくらいには好きだ。(もう一度映画館に観に行くかと聞かれたらそこまでではないかもしれないが)

セカイ系

僕はこの映画を、キタノが描いたセカイ系としてみた。

正直言って、観る前にはアウトレイジの戦国バージョンなのかな、くらいの期待感であった。北野が「バカヤロー‼︎」と言いながら信長を斬る、そんなものをキタノ映画をイメージしながら映画を観に行った。

結論から言うと、そんなエッセンスは多分にある(キタノは信長を斬らないが)。アウトレイジの世界観、そして色使い。これらの後継者として今回の映画を位置付けることは十分に可能だろう。

しかしそれに足し合わせて、もしくはそれ以上のテーマとして、僕はこの映画にいわゆるセカイ系の影を強く感じた。

荒木村重と明智光秀の恋。それを出発点とした天下取り。

ここで光秀が荒木村重と信長を討った後、東北か蝦夷あたりに駆け落ちするなんてエピソードであれば戦国セカイ系、なんて言葉でまとめることも可能であったのかもしれない。

だが、この映画ではそうはならない。

この映画を観た多くの観客が予感するように、荒木村重扮する遠藤憲一は横死する。それも、光秀の手によって。

村重が入っているであろう木の籠が、崖を転げ落ちる時、光秀の命運もまた下り坂を駆け降りていくことになる。光秀は、村重を籠に入れた時、自らの命運をも籠に入れたのだ。

その点で言えば、この物語は荒木村重と明智光秀の破滅系戦国セカイ系、とも言えるのかもしれない。

この映画ではひたすらに赤が強調される。赤とはもちろん、血の赤だ。導入の、首を獲られた武将の血から始まり、村重一族の血、そして光秀の血に至るまで、この映画は一貫して血による赤を強調する。

映画全体をアウトレイジから引き継いだ黒が覆う中、秀吉の黄、光秀の青(キタノの青であるのかもしれない)、そして血の赤が混じり合う。そして途上では信長の建てた安土城はことさらに天上に、光の中にいることが強調される。

この色使いの巧みさはさすがである。

男色

最後に、この映画が殊更に男色を強調している点にも触れざるを得ない。

戦国時代だけでなく、古代から明治初期に至るまで、明治政府により肛門性交が禁止されるまでは、日本ではいわゆる男色文化と言われるものが存在した。「首」ではその文化をある種露骨に取り上げている。

僕はこれをキタノ映画による昨今の性愛に対する言説と歴史との接続として解釈できるのではないかと思う。

男が表舞台に立ち、女が裏で支える。そんなイメージのある戦国時代を描くからこそ、男色文化をある種露骨に強調することで現在の性愛言説へと接続する。

言い換えれば僕らが従来持っていた戦国史のイメージを「訂正」することで現在への繋がりを持たせる、そうこの映画を解釈することも可能ではないかと僕は思う。

最後の最後に

僕はこの映画が好きだ。その前提で言えば、普通に観れば西島秀俊がイケメンすぎて明智光秀全ベット以外の選択肢が見当たらないほど、この映画は西島秀俊が魅力的だった。(もちろん、ドライブマイカーでの西島秀俊もまた、素晴らしい)

そして、長年の「信長の野望」ファンである僕としては、年齢差的にも、立場的にも、「明智光秀が西島秀俊であるならば、北野武が秀吉は厳しいのではないだろうか」と思ってしまった。

最後の最後の最後に

ラストシーンの秀吉は流石だった。

最後の最後の最後でグッとくる。これだから、キタノ映画はやめられない。


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