内子の町並み40周年
この週末、内子の古い町並みの選定から40年を迎えた記念イベントがあった。
愛媛の周辺では「町並み」の愛称で親しまれる「八日市護国伝建地区」での町並みを保存する取り組みは、選定のおよそ7年前からはじまる。
「お祭りやイベント=観光」の考え方から脱却し、「日常の観光を住民でつくり上げていこう」という考えが芽生え、行政の中に「商工観光係」の設置という形で始まった。
以降、商工観光係を事務局に町並み保存のあゆみが始まる。
町並み保存は住民運動
最初はコンクリートがかっこよく、アーケードがナウい時代背景もあって、住民の町並み保存への理解は皆無に等しかった。
妻籠、高山への先進地の視察、試験的な修理工事、徐々にメディアに町並みが取り上げられ、住民の中に町並み保存の機運が生まれ始める。
雰囲気づくりの裏で行政の手続きも必要で、伝建調査を専門家に依頼し、条例整備を進め、ようやく1982年、住民の理解と行政の体制が整った中で、伝建地区に認定された。これが四国で初めてであり、日本で18番目の伝建地区となった。
認定から40年、数億円規模の大規模な工事から数十万円の工事まで行われた。これらの約60-80%は国や県町の負担となるが約2-4割は住民の負担だ。
屋根瓦や壁を修理する500万の工事であれば100万円が住民の負担となる。トタンでかぶせたり、安い新建材で直せば金銭的に楽だが、美しい風景、伝統技術を守るため、誇り高い住民の努力がこの町並みを作ってきた。
そして工事もさることながら日々の清掃や玄関先の飾り付けは個人によるところが大きい。数十年の清掃活動は日々の努力の賜物だ。
町並み保存はよそに勝てる仕事づくり
町並みの40年の中で地元大工への仕事を作った。中には現在の道後温泉の改修プロジェクトにも数社が参加している。
ただ地域に雇用を生むだけでなく、「地域外で稼げる企業づくり」にも町並み保存は一役買っている。
また地域の知名度を上げる取り組みにもたいへん効果を上げた。
観光農園の黎明期である80年代、内子駅裏の観光農園は大ヒットを遂げた。一軒の農家が一夏で2000万稼いだとも言われる。JRも松山から臨時便を出すほどの賑わいを見せたのも農家の努力もさることながら、よその地域でも観光農園がはじまり出していたことを考えても、当時内子の知名度を押し上げていた町並み保存によるところも大きい。
また、単に有名になるだけでなく、町並み保存は大学などの研究機関の興味を引き、学術的な交流人口を多く生んだ。
その後の道の駅、石畳に広がる村並み保存、照葉の森づくりといった活動の発端は町並み保存での経験から積み上がっている。
課題が山積みな町並み保存
そんな町並み保存も評価される一方、課題も山積みだ。交通計画がずさんで車や人、来訪者や地元住民の動線がうまく確保できていない。
寺家町の参道でもある町並みの本山である高昌寺が伝建地区に選定されていない。
商店街や周辺に点在する古民家が保存対象となっていない。
無電柱化が水面化で進んでいる内子市街地。
もう一度、歴史あるものを守り、新しく開発するものは開発する。最先端な暮らしを取り入れながら、古き良き姿を守っていく豊かな市街地を検討する必要がある。
そして最大の課題は周辺の住民や若者に町並み保存とはなにかが全く理解されていないところにある。
これらの課題を少しでもクリアした選定50年を迎えることが内子の次なる一歩になるのではと思う。
町並み保存は将来への投資
伝建地区は広い日本に126地区しかない。中でも内子の町並みの美しさは中でもトップ10に入ると言われている。これは内子が人口減少の中でも残していくべき財産であり、シンボルである。
時代はどんどん変わっていき、新しいものが眩しく魅力的に写りがちである。スマートフォンにVR、ドローンにYouTube。
しかし、40年50年の積み重ねは、裏を返せば、40,50年後も変わらないくらいに魅力的な可能性はある。ビデオやラジカセのようにスマートフォンは無くなるかもしれないが、町並みの魅力はずっとなくならない。
将来を見据えた投資こそ「町並み保存」であり、内子ならではのまちづくりだ。
そもそも町並みがきっかけで内子を知り、引っ越してきた身としては微力でも貢献できたらと思う。