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戒厳令下の新宿3丁目にて

5月16日日曜、17時過ぎ。丸の内線の車内は半分ほど空席だった。駅の地下通路にも若いカップルの姿は少なく、日曜の夕方なのにどこか落ち着いた寂しさを感じさせるほどだった。見慣れた「C3」の出口から地上へと上がる。緊急事態宣言下の新宿、感染のリスクが高いことは承知している。それでも、いや今だからこそ行ってみたい場所があった。

“明日からの興行ですが、関係各所とも協議した結果、感染対策を維持しつつ興行を行う事と致しました。昔からの伝統芸能で今も尚 途絶えずに伝わっていると言う事は、社会生活の維持に必要なものであると解釈しております。“(末広亭のTwitterから)

4月24日、三度目の緊急事態宣言が出される前日に都内の寄席は「興行を続行する」ことを表明した。社会生活の維持に必要なものを除く、という但し書きの隙をついたような形で。しかし1週間後の4月31日、東京都からの要請をうけて寄席は休業に追い込まれた。5月12日の宣言の緩和を受けて「今まで通り対策を徹底した上で」再開した今、果たしてお客さんは寄席に来ているのだろうか?芸人は何を話すのだろうか?

去年の緊急事態宣言の直前、宣言の明けた7月、年末、と回数は多いわけではないが折に触れて末広亭を訪れてきた。その時々の時流は当たり前のように客席の雰囲気に表れる。落語家はそれに応じて枕を話し、噺を選ぶ、そのパフォーマンスに客席は影響される,,,。不思議な相互作用が働いている「寄席」という空間は最新の世の中を細やかに映し出すひとつのメディアなのだ。

寄席の入り口では検温、消毒、舞台上には腰の高さほどのアクリル板が置かれていた。ただし落語以外、漫才や手品など立ったままの芸人の口元まではカヴァーできていない。(漫才のなかで「アンタアクリル板の前に出ないでよ、何のためにあるかわかんないじゃない」みたいなやりとりもあった。)

開演を30分ほど過ぎたところで、観客はまばらながら25人ほどだった。・・・実は感染症に関係なく、寄席のお客さんってこれくらいのことが多い。4時間超えの長丁場のなかで目当ての芸人だけ聴いて帰ったり、トリを目当てに遅れて来たり、というのが当たり前なのだ。ただこの日は雨模様のじっとりした天気もあってか笑いや拍手も控えめでどこか硬い雰囲気だった。

そんな中でこの日、寄席を支えていたのは「色物」と呼ばれる奇術や大道芸、紙切りの芸人たちだった。中でもマジックのアサダ二世は出てきて早々「時間が押してまして、私の待ち時間3分しかないんです。」と冗談まじりに手の内を明かして見せた。飄々とした調子で「布袋から卵が出てくる」という同じマジックを五度六度繰り返し、最後に「この卵が本物かどうか割ってみましょう」と舞台上で卵を割ってみせる。それを新聞紙の筒に入れると、そこからは無数の白い羽が舞い上がった。短い時間のなかで、たぶんお馴染みのネタなのだろうけど、真っ白な羽根が客席に待った瞬間の鮮やかな感動と不思議は忘れられないだろう。

この日は先代柳家小さんの命日だった。中入り前に登場した当代の柳家小さんの演目は「親子酒」。親子で禁酒をしていたのに酒を飲んで帰ってきた息子を同じようについ酒を飲んで泥酔した父親が叱りつける。「お前、顔が七つも八つもあるじゃあねぇか。そんな化け物みてぇなやつにうちの身代を譲るわけにはいかねぇ」負けじと息子は言い返す。「冗談言っちゃあいけねえ。こんなグルグルまわる家なんてもらってたまるか。」・・・柳家小さんという名跡、まさに“身代“をもらっておいて「こんなものいらねぇや」と見得を切ってみせる。そこには父への決意と愛が溢れていた。

中入り後の「番町皿屋敷」、紙切りに続いていよいよトリの演目は「笠碁」。(先代小さんが上方落語をもとに作ったとされている。)幼馴染のおじいさん同士が囲碁を巡って意地の張り合い。お互いに素直に謝らなくて・・・という何とも可愛らしい噺だ。雨が降るなか屋敷で悶々とするおじいさん。「嫌な天気だねえ。あいつもくればいいのに・・・」噺の情景とこの日の湿度がちょうどかぶって見える。少しずつ盛り上がってきた客席の集中はこの噺の「オチ」に向けられていた。おじいさんたちがどうやって仲直りするのか、その一瞬をみんなが待っていたのだ。

寄席はトリだけで成り立っているわけではない。ひとつひとつの演目が影響しあい、観客と芸人とが互いに作用しあって4時間にも渡るひとつのドラマを生み出していく。落語にとって「オチ」は重要ではない、とよく言われるけれど「寄席の時間」としてまるごと捉えてみればそれは確かに「オチ」というカタルシスに向かっていく4時間なのだ。そして、その裏には芸人の素顔が見え隠れする。「うけなかったな」と落ち込んだり、「どうしようか」と焦ったり、「うまくいった!」とガッツポーズをしたり・・・。客席の方では感情は「笑い」となって時に冷酷なくらいダイレクトに表現される。そこには確かに、人間の感情の静かなぶつかり合いがある。感情の荒っぽい手触りがある。

20時半過ぎ、演目が終わって通りに出てみると明かりを落として営業している居酒屋がちらほらとあった。暗い店内から路上のテラス席までほとんど満席の店も。色々と言いたいことはあるけれど、日曜の夜、顔を突き合わせてしゃべりたいのもわかる。やっぱりマスクをしたままでは人は生きてはいけないのだ。何かを感じて、表現して、それを誰かに分かってもらわないことには。それは生きていくことと同義なのだから。


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