生誕100年、團伊玖磨のまなざしー歌曲作品をたどって
團伊玖磨(1924-2001)は、オペラ『夕鶴』や合唱曲『筑後川』、童謡『ぞうさん』などで知られる作曲家である。彼は7つのオペラ、6曲の交響曲をはじめ放送や映画、演劇など多彩な分野で作品を残したが、とくに生涯の前半では歌曲の作曲に力を入れていた。團伊玖磨自身が「心の日記、仕事の故郷」とまで述べた歌曲の創作について概観する。
若き日
團伊玖磨は1924年、東京原宿に生まれた。祖父・團琢磨は三井財閥の理事長や日本経済連盟の会長をつとめ、男爵の位を授けられたほどの人物であったが
伊玖磨が7歳の時、血盟団事件により暗殺されてしまう。
どんなに地位や名誉を持っていても、それはなんてはかないことか…この体験は少年・團伊玖磨に強い衝撃を与えるとともに音楽への道をひらいたようだ。
12歳のとき、團伊玖磨は独学で作曲した譜面を持って、山田耕筰に会いにいった。人相占いに凝っていた耕筰は彼の顔を見るなり気に入り、「やるからには真剣に、オーソドックスに。」と作曲を学ぶよう勧める。
團伊玖磨は、18歳で東京音楽学校に入学。当時の名誉教授は信時潔、同級生には大中恩、島岡譲がいた。在学時の師匠は、ウィーンでシェーンベルクに師事したきってのモダニスト橋本國彦、卒業後はベルリンで学んだ作曲家、諸井三郎に師事した。山田耕筰もドイツへの留学を経験したように、この当時、ドイツの音楽は相当強い影響力を持っていたのである。
團伊玖磨「しぐれに寄する抒情」は音楽学校在学時に初演された、若い情熱に溢れた一曲。(ちなみに初演したのは最初の妻でソプラノ歌手の桑原瑛子である。当時の記事によれば『椿姫』などで主役を演じ、「ドラマティックで荒削りな歌い方で注目」※1されていたようだ…)
終戦、そしてデビュー
音楽学校に入学して2年後、團伊玖磨は学徒動員によって陸軍戸山学校軍楽隊に配属された。バスドラムをたたきながら盟友、芥川也寸志とともに軍楽隊のための編曲も担当していたようだ。1年間の軍楽隊生活を経て終戦を迎え、1945年に音楽学校に復学するも半年ほどですぐに卒業……。團伊玖磨の青春は戦後の混乱のなかにあった。
この年、アルト歌手の四家文子と知り合った團伊玖磨は四家のもとでアドバイスを受けながら、多くの歌曲を書いた。「六つの子供の歌」「五つの断章」など初期の作品はアルトのために書かれたものが多い。同年12月、管弦楽付きアルト歌曲「二つの叙事詩」が日本音楽連盟主催の作品委嘱コンクールで入選を果たしたことが團伊玖磨の本格的デビューとなった。1947年には「花の街」をNHK「夫人の時間」のテーマ曲として作曲、大ヒットを生んだ。しかし、当時を振り返って團は「日本は到るところ焼け跡だらけだった。闇屋が横行し、パンパンと呼ばれた進駐軍相手の娼婦が夜の街には立ち、未だ戦争中の地下壕に暮らしている人も沢山いた」※2と述懐している。作詞の江間章子とともに、厳しい状況のなかだからこそ美しい花の街を思い描こう、という願いを込めたのだという。
同年につくられた「わがうた」は幻の詩人北山冬一郎の『祝婚歌』から詩を選んだ歌曲集である。みずみずしい言葉と音楽からはどこか切なさや後悔が戦後の情景とともに立ち昇ってくるように感じられる。
1948年、團伊玖磨は芥川也寸志とともにNHKの専属作曲家になった。5年間の「放送の時代」のはじまりである。
『夕鶴』と山田耕筰
1952年、團は28歳でオペラ『夕鶴』を初演し大成功を収める。この『夕鶴』をめぐって、恩師・山田耕筰との興味深いエピソードがある。
耕筰は生涯を通じて日本語に音楽をつけるための「仕組み」を作り上げた。
一音一語(一つの音符に一つの母音)
標準語のイントネーションにあった音高のつけかた
「からたちの花」に代表されるように、山田耕筰の歌曲の特徴としてこの2点があげられる。團伊玖磨はこれを受け継ぎつつも、次のように異論を唱えている。
一音一語ではどんな内容の詩であってものんびりとした、間延びした音楽に聞こえてしまう。
なぜ標準語に限るのか?方言も取り入れて良いのではないか。
そうしてできあがった『夕鶴』ではドラマティックに音楽と言葉を結びつけ、さらに“つう”以外のすべてのキャラクターに複数の方言を混ぜたオリジナルの方言で歌わせる、という手法が繰り出された。
初演をみた山田耕筰は團伊玖磨の楽屋を訪れ、2人は口論になったという。翌日、團が指揮台に立つとなんと(招待していないのに)最前列に山田耕筰の姿が…!終演後、再び楽屋を訪れた耕筰は「よく考えたが、君のやりかたで良いと思う」と語ったという。第一回山田耕筰賞は『夕鶴』に贈られたが、その賞状は「團くん、ありがとう」と締めくくられていたそうだ。
初めてのヨーロッパ
1953年、NHK専属作曲家を辞職した團伊玖磨は翌年には東宝映画の音楽監督に就任。10年間の「映画の時代」のはじまりである。同じ年、團は映画「羅生門」の音楽監督としてカンヌ映画祭を訪れた。映画祭の代表は詩人ジャン・コクトー、團伊玖磨にとって初めてのヨーロッパだった。各地のオペラ座をまわり創作欲を刺激されたのか、この後数年間で多くの作品を創作するとともに本格的にオペラの創作に取り組み始める。この時期の歌曲作品としては『抒情歌』『三つの小唄』『東京小景』などが挙げられる。
芥川也寸志、黛敏郎と「3人の会」を結成し管弦楽の分野で自主的な新曲の発表をはじめたのもこの時期である。やがて、1962年「ジャン・コクトーに依る八つの詩」を最後に、晩年までの39年間、歌曲の創作は途絶えている。
八丈島へ
1963年、東京オリンピックの年に山田耕筰が亡くなった。團は東宝映画の音楽監督を辞職、八丈島に別荘を作り合唱曲の創作に傾倒するようになる。
民間放送がはじまり、スーパーやデパートができ、高度経済成長がうねりをあげる…。時代の転換期のなかで放送や映画に携わってきた團は文化の質の低下を憂いてこんなふうに記している。
さらに1966年、劇団・前進座の音楽監督として中国を訪れた際、たまたま文化大革命に遭遇したことも團に大きな影響を与えたようだ。
耕筰から「オーソドックスに」と言われた通り、ドイツの音楽を一心に学んできた團伊玖磨。しかし、それだけでは足りないのではないか…。中国の人々の圧倒的なエネルギーを目の当たりにして、日本人として、アジア人としてのあり方を自問する様子が伺える。作曲家もふくめ、皆が「流行に乗り遅れまい」と急ぐ様子を憂いて團伊玖磨はこんなふうにも記している。
多様な情報に溢れ、流行がめまぐるしく変化していく現代。團伊玖磨の言葉は、時代を超えてなお響いてくる。戦後の荒地の中でうつくしい花の街を描いたように、どんな時にも人の心にうつくしい火を灯すこと。それが音楽の、文化の力なのではないか、と。
晩年2001年に初演された歌曲集「マレー乙女のうたへる」は團伊玖磨の生涯最後の作品となった。ひとりの少女が大人へと成長していく姿がフランスの詩人イヴァン・ゴルの詩とともに官能的にとらえられている。フルートとピアノとソプラノという構成や、音楽の端々からはシェーンベルク『月に憑かれたピエロ』のような響きも感じられる…。
じつに39年ぶりの歌曲が最後の作品になったことは偶然ではないだろう。歌曲は彼にとっての「仕事の故郷」でありつづけたのである。
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