もう二度と観たくない。 ー「異端の鳥」
・・・ポスターを見ればどんな感じの映画か、誰だってわかりますよね。
予想より遥かに重い、しかもショッキングな映画でした。変な汗が出まくり、風邪をひくまえみたいな悪寒に襲われながら3時間、なんとか見終えました。最後のシーン、そして音楽はほんとうに救われるような神々しさでした。
異端の鳥 とは何か? 原作はイェジーコシンスキの小説「the colored bird」。コシンスキはユダヤ系ポーランド人でWikipediaによると
第二次世界大戦中は両親と別れ、片田舎でカトリック教徒を装いホロコーストをのがれる。このときのトラウマのために5年間、彼は口がきけなくなった。
ということ。ただしこの映画が彼の実体験をもとにしているか、についてはかなりグレーなようです。公式サイトの彼のプロフィールも意外と波乱万丈です。
「ペインティッド・バード」は発表当初からバッシングにさらされ、近年ではゴーストライター疑惑や盗作疑惑がもちあがり、また主人公の少年がたどった経験と作家の伝記的事実との相違など、大いに物議をかもしつつ、現在に至るまでロングセラーとなっている。(略)合衆国PENクラブ会長を務めるなどの名声の陰で、シャロン・テート事件とのかかわりやCIAとの接触疑惑など、毀誉褒貶の振幅が大きかった。1991年、自宅の浴室内で自殺。
鳥飼いのおじいさんが黒い小鳥を白く塗って群れに返すものの塗られた鳥は散々に突き回されて死んでしまう、という場面が出てきます。少しでも違いを持つものは集団から徹底的にいじめ抜かれる、というこの鳥の姿が主人公の少年とわかりやすいほどに重ねられています。
この映画、舞台設定や時代の背景がちょっとわかりづらかったのですが、スラヴィック・エスペラント語という人工言語が使われているそうです。スラヴ諸国を中心に1600年ごろから使われている言葉で映画で使われるのは初めてのことだとか。公式サイトにはヴァーツラフ・マルホウル監督のメッセージも載っています。
小説の中で、コシンスキは物語の舞台がどこに設定されているかを明確に述べてはいない。東ヨーロッパのどこかで特別な言葉が話される場所としてのみ説明されている。だからドイツとロシアの兵士が母国語で話す中で、その他の部分はスラブ言語全てを混ぜた言語で撮ることを選んだ。英語では絶対に撮りたくなかった。英語ではストーリーの信頼性が失われてしまうからだ。
ラストシーンはなぜ感動的なのか? 少年は周囲の人々からひどかいじめられる中で少しずつ暴力性を身につけていきます。錆びたナイフから、鋭利なナイフ、拳銃へ、と少しずつ変わっていく武器。亡くなった人の荷物を漁っていた少年が後半では追い剥ぎをしていたり。ついには殺人へ、と至る少年の変質が丁寧に描かれています。
神父が言うように虐めを「甘んじて受ける」のか、ソ連の兵士のように「眼には目を」を信念とするのか。そんな壮絶なせめぎ合いの中で愛されることもなく育ってきた少年。そんな少年にとって他者は「自分の敵か味方か」のどちらかしかいなかったのではないでしょうか。
終盤バスの中で父親の腕に収容所の刻印があるのに気づいた少年。ここで「この人も苦労していたんだ」と悟るわけです。そして自分の知らない外側にある「世界」、敵でも味方でもない「他者」にはじめて出会う瞬間が描かれているのだと思います。
もうひとつ、バスの窓が曇っているのは気温差があるから。外は寒いけれどバスの中は暖かい。そう思うと一層希望的なラストに見えてきます。どうか希望的であってほしい・・・
本当に徹底的なまでの残虐さ、容赦無い性描写。延々と見せられるなかでどうしても考えてしまうのはこれはグロテスク趣味ではないのか?ということです。(そもそもポスターにもなっている「全身を埋められてカラスに突かれそうになっている少年」は元はといえば病気を治すための呪術的なやり方。朝になって焚き火が消えてたのでカラスに囲まれてしまった、という呪術師のおばさんの親切心からのいわば“うっかり”によるもの。かなりのインパクトはありますが、物語の核とはちょっとだけズレている部分なんですよね)
反戦映画のようなふりをして、実は僕らは残虐なものを楽しんで消費しているのではないか、そんなふうにも思ってしまいました。ここまで残虐でなければ心を動かされないくらいに現代の僕らは鈍感なのだろうか・・・と。
異質なものを排除しようとする、というのは人間の深くに眠っている本能なのかもしれません。平和な時にはそれは幾重のバリアで守られていますが何かが起こったらそれは剥き出しになってしまうのかもしれない。それでも、『人間性』というそのバリアは簡単なことでは壊れないと僕は信じています。なぜなら僕らはきちんと愛されて育った人間で、他者を愛することもできるのだから。