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無関心に希望はある。ー“ハッピーエンド”をみて。


ミヒャエル・ハネケ監督作。静かだけどかなりガツンとくるこの映画・・・。観た次の日はちょっと考え込んでしまいました。

あらすじはこんな感じ→
フランス北部、移民が多く暮らす町、カレー。建設会社を経営し、大きな邸宅を構えるロラン家に生まれたエヴは、両親の離婚をきっかけに家族と距離を置いていた。だが父親のトマと暮らすことになり、祖父ジョルジュのいるカレーの屋敷に呼び出される。やがて、家族の秘密が少しずつ明らかになっていき……。

身近にいるのに無関心  この映画、まず違和感を感じたのは予告編にもなっている 階段でアンが使用人を呼び止めるシーン。ソーシャルディスタンスか!とつっこみたくなるほどの距離をとったまま会話する2人を、カメラはずっと同じ視点で捉えていてどちらにもズームしたりすることがないのです。定点カメラのようなこの不自然な撮り方はこの後もけっこう出てきます。このシーンのあと、使用人がジョルジュに朝食を持っていくところではカメラは自然に動いて二人の親密な様子を捉えています。立場や年齢は違っても、もう長い間彼はジョルジュに毎朝朝ごはんを運び、ジョルジュは毎朝同じように彼を迎え入れているんだろうな・・という信頼の暖かな蓄積を感じさせるシーンでした。(終盤のエヴァとジョルジュの距離が縮まっていく様子も映像の撮り方で巧みに表現されています。)
定点カメラのような撮り方と似た不自然さを感じさせるのが、トマ・アナイス・エブらが「おやすみ」「おやすみ」「おやすみ」......とだけ言い合うシーン。そう言えばここも定点カメラで撮られていたような。SNSの投稿のような、やる気のないライングループの会話のような無機質さを感じさせました。
こんなふうに、この映画に描かれる家族は近くに住んでいても無関心で、お互いに記号的な会話ばかり。しかもそれぞれが秘密を持っていて、それをそれぞれのSNSで呟いている・・・。「近くにいても無関心」という現代的な家族像を監督は難民問題と重ね合わせたそうです。といっても難民問題が真正面のテーマではなくて、主題はあくまで家族や人と人の関係性。核家族だと想像しづらいけれど、3世代の大きな家族となれば社会の縮図みたいなものですものね。

なにを? もうひとつ、この映画によく出てくるのが聞かれたことに対して「なにを?」と聞き返すシーン。例えば自殺未遂をした娘エバと父トマの病室での会話。
「何で話してくれなかった?」
「なにを?」
「何って・・その・・」
たまらなく切ないシーンですが、何を?と聞き返されたら戸惑ってしまいますよね。それ以上踏み込めないというか、なんというか。踏み込まないで!と無意識にバリアする言葉がこの「なにを?」なのかも知れません。家族でありながら感情の深いところに立ち入れない、立ち入らないように互いに牽制しあっているような“ためらい”が何度も繰り返されます。
終盤、エヴァとジョルジュの対話のシーンでもこのやりとりは出てきます。
「なぜやった?」
「なにを?」
ここでは何も話さないことで全てを話しているような、深いニュアンスを含んだ「なにを?」になっているのが印象的でした。重い秘密を共有する二人にしか理解できない、短いながらも様々な意味あいを含んだ豊かなやりとり。年齢も離れていて、長い間一緒に住んでいたわけではないのにここまで共振しあえるのはなんなのか・・・。

鳥の話  ジョルジュとエヴァのやり取りで印象に残ったのは、ジョルジュの鳥の話。さっきのなぜやった?の直前の場面です。

“この間大きな鳥が小さな鳥をバラバラに引き裂いていた。庭には羽だけが散っていた。
もしテレビで観てれば普通のことに思える。それが自然の摂理だと。でも現実に見ると、手が震えた。”

静かな口ぶりだけど、これは刺さった。そうだよな、と腑に落ちる感覚でした。TVやSNSのひいた目線、整えられてツルッとした情報はなかなか自分のものとして捉えることはできません。殺人事件のニュースとかセンセーショナルなものは興味を刺激はするけれど、それを自分の痛みとして感じることはできない。おそらく大部分のひとに関係ないような事件を報道する意味ってなんなのかなと思ってしまいます。(それってただニュースを消費してるだけじゃ?とか。)ツルッとした液晶の中じゃなくて僕たちは現実の世界に生きていて、そこはちゃんと“実際の痛み”を伴う世界なのだから。

SNSというパーティ  ラストシーン、アンの結婚パーティーでの一波乱が起こります。折り合いの悪かった息子ピエールが仕返しのために、勝手に見知らぬ移民たちを連れてきたのです。結局アンに諌められ、バタバタしてごめんなさいねーと移民たちの為に新しいテーブルが用意される というピエールにとっては屈辱的な結果になってしまうのですが。そして突然やってきた移民たちに対してあからさまに嫌そうな、それを押し隠すかのような参加者たちの目・・・。いちばんたちが悪いのは実は諍いを眺めている参加者たちなのでは、と思ってしまいました。ジョルジュは不穏さを察知し、エヴァに“ここから抜け出そう。いいだろう?”と話しかけます。膝にかけたナプキンをテーブルに置いたり、とかなり早い段階でジョルジュが抜け出すのを思いついている様子が描写されています。きっと彼は“どうにもならない雰囲気”を素早く感じ取ったのでしょう。このパーティはTwitterをはじめとするSNSによく似ているな、と思います。どちらの立場をとってもどうにもならないような対立、それをどちらの側でもなくただ見ている人たち、あえて冷笑的な態度をとる人たち・・・。どの立場に立っても、どうしようもない閉塞感しかないような気がするのは、きっとそれがあまりに自分とかけ離れているからだと思います。〇〇に抗議します、とかセンセーショナルでキャッチーな言葉遣いだけれど、それが自分のこととは思えない。自分のパーソナルな部分をわかってくれる人はいないし、現実世界でもそれを見せられる人はいない。そんな実感が虚しさにつながっているのではないか。文字通り「パーティから抜け出す」しか解決策はない。その場にすら存在しないこと、無関心でいることしか解決策はないのだ、と思えてきてしまいました。

実際、僕はこの映画を見てTwitterを辞めました。現実世界で数は少なくても友達がいればいいじゃないか、と思ったからです。けど、ちょくちょく気になって見てしまう。そして、こんなふうに文章を書いて匿名の海に放り投げるのをやめられない。映画の最後にエヴがスマホでとっさに動画を撮っていたように。こんな文章誰も読まないだろう、読まれたとしてもそれが何なんだ、と思いながらも。“わかってもらいたい”という快楽を、見えないネットワークに求めることをやめられないのです。

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