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冬の安芸灘諸島を巡る

どうもこんにちはこんばんは。

瀬戸内は夏に行ってなんぼ、などと思っていた自分だったが、折角天気も良さげだったので「冬の瀬戸内、行っちゃいますか」ということで、昨年夏に途中で断念したきりになっていたとびしま海道へ出向いた。

その夏のお話はこちらから。今回の記事を出すにあたってついでに再編したのでよかったら併せてどうぞ。

前回から随分と期間が空いてしまったが、実際去年のうちに行こうとはした。いつか話すかもしれないのでここでは詳細は置いておくが、まあ色々あったのだ。

例のごとく広からバスに乗り込み旅を開始する。前回は上蒲刈島まで行ったので、今回はその次の豊島へ向かう。

安芸灘大橋を渡り本土に別れを告げる
第二の橋、蒲刈大橋
第三の橋、豊島大橋を渡り豊島へ

吊り橋の安芸灘大橋、トラス橋の蒲刈大橋、吊り橋の豊島大橋と交互に続いていて面白い。ちなみに次の豊浜大橋はトラス橋だ。

豊島に上陸

写真からも伝わると思うが、お世辞にも"いい天気"とは言えない霞み具合。今日はハズレの日か、なんて落胆しかけていたのだが____

夏とは対象的なこの柔らかな陽の光、そして淡い海の色が冬の瀬戸内の雰囲気を演出してくれている、そう考えるともはやこれがベストコンディションなのではないかと、先の憂いはどこかへと吹き飛んだ。

「ようこそ豊島へ」の文字に出迎えられ、探索を開始する。

斜面へ伸びる階段に吸い込まれるように路地の中へ。こんなの、誰だって登りたくなってしまうものだ。

斜面に所狭しと並ぶ瓦屋根、小さな港、そして眼前にはまた別の島の影。これぞ瀬戸内。これこそが瀬戸内。

海の見える坂道を下る
次の橋が見えてきた

さて、ここ豊島には是非訪れたいと思っていた場所がある。

こんなところにエディオンが

そんなエディオンの脇に見えるのが、、、

突如として現れたコンクリートの建造物。むろきはら橋。

このファンシーな色使いがまたミスマッチ感を増幅させている。側壁に描かれたイラスト「アビ」という広島県の県鳥。この辺りの海域はアビの飛来地らしい。

まるでアトラクションのよう

集落の隙間を這うように敷設された螺旋橋。高低差は15m。限られた空間の中で道を通すという努力が垣間見えた。

最上段からは海がよく見えた。どこから見ても不思議な光景だ。

致死量の瀬戸内を浴びている

こういう景色に出会うために歩いている。

高台から豊浜大橋を見下ろす

豊浜大橋の袂には小さな漁港がいくつも並ぶ。

バス停を目指し海沿いをひた歩く。

漁港に突如として現れた洋風のレンガ橋。どういう経緯で出来たのか気になる。

そういえば瀬戸内"産交"のバスなのにどうしてバス停は"さんよう"バスなんだろうと、ふとそう思って調べたところ2社による共同運行のようだ。

バスに乗り込み次の目的地、御手洗へ。

瀬戸内海の中央に位置する御手洗は、かつて江戸時代から昭和初期まで、風待ち、潮待ちの港として発展した。

伝統的な町屋が軒を連ねる中、洋風建築も混在し、時代の重なりを感じることができる。長きに渡って瀬戸内の交通の要所として栄えていた証だ。

これほどに"懐かしい"という言葉が似合う街並みが他にあるだろうか。

いわゆる街並み保存地区と呼ばれるような場所には他にも何度か足を運んだことはあるが、文字通り保存されている感が強くて、綺麗に整備されすぎていて、個人的には好かないと感じることも少なくなかったが、ここは当時の面影、雰囲気がそのまま感じられて大変良い。

歴史の見える丘公園からの眺望

最後に3月で運航休止となる大長と竹原を結ぶ高速船に乗るべく、大長港へと向かう。

猫が写っていることにたった今気が付いた
大長地区の街並み

小さな湾を取り囲むように集落が形成されている。

瀬戸内産交のバス
良きカラーリングだ

みかんのオブジェがあしらわれた電話ボックス。みかん栽培は地域の基幹産業となっており、広島一の出荷量を誇るという。

大長港の待合室に足を踏み入れる。あの日から時が止まったままの空間。まるで自分だけがこの世界に取り残されたような、そんな気持ちにさせられる。

壁に掲げられた広告は今治市のものが多く、かつての結びつきを感じることができる。船が無くなればこの場所もどうなってしまうのだろう。

お迎えの船がやってきた

竹原港まで片道40分の船旅。おそらく最後の機会になるだろうからじっくりと味わうとしよう。

かたわれ時の大長港を経つ

大崎下島~大崎上島、そして大崎上島~竹原の区間利用が大多数だった。おそらく全区間乗り通したのは自分だけだっただろう。

暮れなずむ瀬戸内を眺めながら船に揺られる至福のひととき

無くなる割には人が乗ってるな、とも思ったし、無くなるのも納得の人の少なさだな、とも思った。

夜の竹原港に降り立った

本土までは橋で繋がっているし、これも時代の流れというものなのだろう。東側の島からは遠回りになってしまうが。ここまでくればもう少し頑張ってしまなみ海道と繋げられなかったのか、なんて思っていたらちょうどその理由が記された記事が出ていたので最後に紹介しておく。興味がある方は是非。


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