見出し画像

運転手の佐藤さん

「沿道にはアジサイが咲いております。色とりどりの鮮やかなキレイなアジサイを鑑賞して梅雨ならではの過ごし方を楽しんできてはいかがでしょうか」
福岡・地方バスに「オリジナルのアナウンスが心に染みる」と噂の運転手さんがいる。
佐藤さんは知る人ぞ知る、マイクパフォーマーなのだ。
これは福岡市内を走る、ごく普通の路線バスでのアナウンスである。
車中このレベルのアナウンスが頻出する。
はたして、地方バスの運転手・佐藤さんとは、いったいどんな人物なのか。
そして、なぜこのようなパフォーマンスを思いつき、実行するにいたったのか。

佐藤さんのことを知ったのは、本当に偶然だった。
セミがワンワン鳴く真夏日。
耳をつたう汗を手拭きでぬぐう。
乗るべきバスが止まり、空気の抜けるプシュッという音と共にドアが開く。
その時だった。
「暑い中、お待ちいただき、申し訳ありません」
え?と思う。
待っていたのは、たまたま私一人だったこともあって、直接、声をかけられた気分だった。
車内に入ると
「バスは5分ほど、遅れております。みなさま、お忙しい中、そしてお暑い中、ご迷惑をおかけしております」
控えめな声量だが、言葉はしっかりと伝わってくる。
「これからも暑い日が続くようです。お仕事、お勉強、習い事など大変だと思いますが、どうか笑顔を忘れずに楽しくお過ごしください」
一言一句、覚えているわけではないが、彼はこういった意味のことをアナウンスした。
「笑顔を忘れず」が上からと感じる人もいるかもしれないけど、彼の声のトーンから謙虚な姿勢が伝わってくる。

佐藤さんのアナウンスには、多くのコメントが寄せられている。
「去年のクリスマス、次男の病院帰りに地方バスに乗りました。気が滅入る中、クリスマスにちなんだメッセージにほっとしたことを覚えています。降車時、息子たちに連接バスのペーパークラフトまでいただきました。サンタさんは地方バスにいました!」
「降車ボタンどっちが押すか問題で息子たちがもめていた日のこと。長男が押し、次男が号泣した際にもう一回押していいよと再度おさせてくれた運転手さんもいました」
地方バスで素敵な体験をしている人が多いことあらためて気づかされた。

佐藤さんの所属する博多営業所は東京行きの夜行バスやBRTがあるので、選抜された運転技術の高い運転手が集まって来る。
もちろん佐藤さんも高速バスやオープントップバス、BRTも運転する。
その中でも佐藤さんが路線バスに乗車する日の一日を追ってみた。
まずは出発地点である博多営業所からスタートする。
出勤時間は6時40分という勤怠だ。
この時間でも十分早いが、佐藤さんは勤怠時間よりずっと早い時間に出勤する。
「今日ですか? うーん、6時前には来ていましたね」
ちょっとはにかんだような笑顔。
まだ暗い、日の出前から佐藤さんの1日はスタートする。

丁寧な点検と清掃を終えた佐藤さんは、バスの前面に周り、深々と頭を下げて、バスにお辞儀をする。
バスに対して「今日もよろしくお願いします」と心で唱えているのだという。

本日佐藤さんが乗車する「博多駅~西新線」は、博多駅前から福岡タワーを4往復する予定だ。
7時10分、運行は博多駅前のバス停からスタートした。
「お寒い中、お待たせいたしました。」
車外に向けられたスピーカーから、さっそく佐藤さんらしい言葉。
福岡市の気温は12度で、ここ数日、再び急に寒くなったこともあって、確かに寒さが体にしみ込んでくる。
そこにねぎらいのアナウンス。

バスが福岡の都心部である天神地区に入ると、スーツ姿の乗客が目立つようになる。
ここで、アナウンスの内容に変化が起こった。
「さわやかな青空が広がっております。みなさま、今日も笑顔で行ってらっしゃいませ」
「雲一つない気持ちのいい空が広がっています。今日が皆様にとって、素晴らしい1日となりますように」
佐藤さんにそう言われると、見慣れた空が、急に価値のあるもののように思えてくる。
心なしか、乗車していくビジネスパーソンの背筋が伸びていたような気がする。

2往復目の往復の帰り道。
バス停の待ち客への言葉が変わった。
「おはようございます。お待たせいたしました」
あれ「寒い中」という言葉が消えている。
お昼近くなったことの時、気温は17度。
確かにもう寒いという感覚はない。
佐藤さんは、待っているお客様を観察して、かける言葉を変えているのだ。

なるほど、そう思うと、車内アナウンスでも、乗客の動きによって、言葉を選んでいるようだ。
例えば、降車する中に高齢者がいたら、
「お足もとにお気をつけて、どうぞ、ゆっくりとお降りください」
と語りかける。
特別な言葉ではないが、その人に向けられているのがわかるから、みているこちらの心まで温かくなる。

さらに驚いたことに、乗客が降車する際、佐藤さんはマイクをオフにして、全員に声をかけていた。しかも、「ありがとうございます」だけでない。
「この先もお気をつけて」
「お風邪など召されませんように」
一人ひとりの目を見ながら、その人に合わせた言葉をかけていくのだ。

たまたま、乗車した日は、日本は、皆既月食と天王星食が同時に起こるという、天体ショーが繰り広げられる日であった。
佐藤さんが、この一大イベントを見逃すはずがない。
「今夜は、皆既月食と天王星食が、実に442年ぶりに起こるそうです。忙しい毎日の中、たまには夜空を眺めて、ゆっくりとした時間をお過ごしになってはいかがでしょうか」
そうでなくては佐藤さん!
でも、ずっと運転中の佐藤さんは、ゆっくり空を眺めるどころではないのだけどねと思った18時10分頃。
佐藤さんは珍しく、右折しながらアナウンスを始めた。
「お客様にお知らせします」
え? お知らせ? 
「本日は皆既月食と天王星食が同時に起こる珍しい日です。前方のお月さま、もうかけ始めていますね、ぜひ、まどからご覧ください」
中高生たちが部活動で汗を流すグランドの向こうに、少し欠けた大きな月が浮かび、それを見上げた乗客たちが軽くどよめく。
バスの中で、こんな体験ができるなんて、佐藤さんのアナウンスのおかげだ。

この日の最終便は20時1分の出発。
博多駅に向けて小一時間の運行だ。
また気温が下がってきた。
「日中と夜の気温の差が大きくなりました。風邪をひかぬよう、体調管理にはくれぐれもお気を付けくださいませ」
「今夜も放射冷却で寒くなるようです。どうぞ暖かくしてお休みください」
どこまでも優しいアナウンス。
気が付くと車内に暖房が入っている。
もしかして、ご高齢の御夫婦と思しきお二人が乗ってきたから? 

その予想は間違っていなかったようだ。
終点の博多駅で降車するとき、ご婦人の方から「暖房を入れてくださって、ありがとう」と佐藤さんに声掛けだ。
佐藤さんは恐縮したように顔の前で手を振りながら「いえいえ。どうもありがとうございました。またの御乗車をお待ちしております」と笑顔で二人を送り出した。

営業所に着いた時、時計は22時を回っていた。
佐藤さんは事務所で運賃を精算してから退社する。
自宅に戻ってから、遅い夕食なのだそうだ。

佐藤さんは大学は理系に進み、なんとなく「電気関係の仕事に就くのかな」と考えていたようだ。卒業後1年間、オーストラリアでワーキングホリデーに行き、福岡に帰ってきて、地方バスに乗った時に「バス運転手募集」というポスターを見て、軽い気持ちで応募したそうだ。
軽い気持ち……。往々にして、こういう人が化けるのである。

新人の時、研修センターの講師から言われた「なかなか難しいことだとは思うけれど、お客様を感動させる運転手を目指してください」という言葉が、佐藤さんの心に残っていた。

でも、確かに感動させるなんて難しいし、当初はマニュアル通りの運行を徹底することに必死だった。
しばらくして仕事に慣れてくると、「元気で行ってらっしゃいませ」といった一言の声掛けを始めた。

長文のアナウンスに目覚めたのは、入社4年目、赤間営業所に配属され、赤間から天神までを運行する「赤間急行」に乗車した時だ。
十数分間、都市高速を通るルート。
「この時間を使えば、しゃべれるかも」と思った。
長いアナウンスが珍しかった。
お客さんのクスクス笑う声が聞こえてきて、ウケたぞと思った。
お客さまからの反応は、佐藤さんに快感であった。

ネット上でもレスポンスがあった。
地方バスのウェブサイトに設置された「お客様の声」に、「佐藤さんのアナウンスが良かった」という感想が寄せられた。

今から8年前、佐藤さんのアナウンスもすっかり定着した頃の話だ。
4月のうららかな日、いつものポイントで、「新入生の皆さん、新社会人の皆さん、新しい生活が始まりますが、失敗を恐れずチャレンジしてください」とアナウンスした。
そのすぐ後で、よく佐藤さんの「赤間急行」に乗ってくれる女子大生が真新しいリクルートスーツを着ているのに気付いた。
彼女が降車する時、「就職活動、がんばってね」と声をかけた。
数か月後、その女子大生からウェブを通して「内定が決まった」と報告があった。
「あの言葉で気持ちがほぐれて、自分の希望する会社に合格しました」と。
佐藤さんにとって忘れならない思い出だ。

思い出すと、今でもにんまりしてしまうエピソードがある。
その日、ソフトバンクホークスが優勝を決め、佐藤さんは試合が終わった後の臨時便に乗車していた。
バスは興奮した観客でいっぱい。
23時近く、終点が近づく道で、佐藤さんは「今だ」とおもった。
「みなさん、今日は寒いので川には飛び込まず、帰宅されたらそのままお風呂に飛び込んでください」
そう言い終えた瞬間、社内がどっと沸いた。
爆笑をかっさらった気分は最高だった。
降車するお客は口々に、「運転手さん、最高!」「おもしろかったよ」と声をかけてくれた。

ドキドキしながら初めて長文のアナウンスをしたあの日から、もう15年に上の月日が経った。
42歳、できる限り、運転手を続けたいと思っている。
すでに、佐藤さんを目指して、独自のアナウンスを始めている若手の運転手もいるという。

「普段は恥ずかしくて言えない感謝の気持ちをカーネーションを持って伝えてみてはいかがでしょうか」
今年も母の日が近くなると、佐藤さん独特のアナウンスが車内に響く。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?