事解男命とは(2)ー阿須賀と飛鳥

阿須賀神社は平成28年(2016)に世界遺産に追加登録されました。
神社は速玉大社の西1•5kmほど東に行った場所にあり、住宅や商店に囲まれています。熊野川の河口近く、新宮駅から徒歩10分程度。神社は蓬莱山(ほうらいさん)と呼ばれるお椀を伏せたような円錐形の山の南麓に南面しています。山を背にしています。このような形状の山を神奈備(かんなび)といい、信仰の対象になっています。奈良県の三輪山が代表的です。蓬莱山は南北100m、東西50m、標高が48mで、山全体が神社の境内地です。この山はもとは、御船島のような川の中島だと言われています。古くから開けた場所で、境内からは弥生時代の遺跡が発見され、住居も復元されています。隣接して新宮市の歴史民俗資料館があります。
阿須賀神社の「あすか」とは神社の説明によると、「浅洲処(あすか)」を意味するとあり、河口部の砂が堆積した流れの穏やかな清浄な場所ということでしょう。
阿須賀は飛鳥とも書きますから、阿須賀神社もかつては飛鳥神社と呼ばれました。熊野には飛鳥神社がいくつか祀られていますが、それらも阿須賀神社から勧請されたものです。飛鳥というとすぐに奈良県の飛鳥を思い出します。古代の宮都が置かれ、日本の中心でしたから。
東京に「飛鳥山」という桜の名所があります。一万円札の肖像になる渋沢栄一ゆかりの場所ですが、ここにはもと飛鳥神社が祀られていて、それが近くの王子神社に合祀された後、徳川幕府が跡地を王子神社に寄進し、さらに将軍吉宗が桜を植えて江戸市民の行楽地としたそうです。王子神社は熊野権現の若一王子を祀っていますから、そのつながりで王子神社に合祀された飛鳥神社も阿須賀神社がルーツではないかと思い、「飛鳥山博物館」に問い合わせましたが、合祀された飛鳥神社の記録は残っていないそうです。私は王子神社とのつながりと、神社跡地を整備したのが紀州藩出身の吉宗将軍ですから可能性はあると思っておりましたところ、この記事を書くために調べていて、神社境内の由緒書きに「元享二年(一三二二)に東京北區の飛鳥山に勧請される」とありました。勘が当たりました!東京名所の飛鳥山のルーツが奈良ではなく熊野だということを都民にも知ってもらえるといいですね。元享(げんこう)二年は後醍醐天皇、幕府執権は北条高時です。
またこれは妄想かもしれませんが、神武天皇が熊野から八咫烏に案内されて大和に入ったという伝承がありますから、神武天皇がこの神を伴って大和に行って祀ったということも考えられなくはないです。飛鳥というのは神聖な場所ということではないでしょうか。『紀伊続風土記』に飛鳥についての記述があります。あらためて紹介します。
神武天皇に関連して神社境内には「神武天皇聖蹐熊野神邑顕彰碑(じんむてんのうせいせきくまのみわのむらけんしょうひ)」があります。
蓬莱山は飛鳥山とも呼ばれます。秦の始皇帝の命令で不老不死の薬を探しに行った徐福(じょふく)がこの地にたどり着き、東の海上にあるという聖なる山、蓬莱山にちなんだものと言われます。
阿須賀神社には、室町幕府3代将軍足利義満が奉納した古神宝がありました。これは速玉大社の造営にあたり大社と阿須賀神社に奉納されたもので国宝に指定されており、大社には今も所蔵されています。阿須賀神社のものは昭和26年(1951)文化財保護委員会(文化庁の前身)が買い取り現在は京都国立博物館に収蔵されています。当社は昭和20年(1945)戦災により焼失しましたが、古神宝は難を免れました。その後昭和51年(1976)再建されました。

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