衛門三郎伝説と熊野信仰ー愛媛大学の研究論文の4

前章で書かれている内容について補足します。研究者の名前が2名あります。豊島和子(とよしまかずこ)氏と小嶋博巳(こじまひろみ)氏です。豊島和子氏は大阪府枚方市にある関西外国語大学講師で、学位は比較文化学で同大学から博士号を取得しています。小嶋博巳氏は岡山市にあるノートルダム清心女子大学名誉教授。研究分野は民俗宗教、巡礼、六十六部日本廻国です。
『宝物集(ほうぶつしゅう)』は平安時代末期の仏教説話集。著者は平康頼(たいらのやすより)。別名は『康頼宝物集』。治承年間(1177~1181)の成立。本によって一巻、二巻、七巻の違いがあり、本文の異同も甚だしく、原型に近いのは一巻本だといわれています。嵯峨釈迦堂(清涼寺)での僧俗の対話形式をとり、多数の説話を援引し、仏法こそが至高の宝物であると語っています。作者の平康頼(法名性照)は生没年不詳。後白河院の北面武士で、検非違使兼左衛門尉に任じられましたが、安元3年(1177)、平家打倒の謀議を行った鹿ヶ谷の陰謀事件に関与したことで、鬼界が島(薩摩沖の硫黄島)に流罪となりましたが、翌年、中宮徳子の安産のための特赦によって召還されて帰京。その後は東山双林寺に住み、この説話集を編集しました。東山双林寺は、正式名称を「金玉山(きんぎょくざん)雙林寺(そうりんじ)」と言う天台宗の寺院で、延暦寺の直末寺。薬師如来と歓喜天(秘仏)を祀っています。雙林寺は最初は天台宗でしたが室町時代に時宗の僧により再興され時宗の東山道場と呼ばれていました。明治維新によって天台宗に戻りました。京都十二薬師霊場第七番札所。住所は京都市東山区下河原鷲尾町527。この場所は下河原通(しもかわらとおり)高台寺北門前鷲尾町、あるいは下河原東入る鷲尾町ともあり、高台寺の近くになります。京阪電車「祇園四条駅」下車徒歩約20分。
「石手寺刻板(いしてじこくばん)」については、愛媛大学名誉教授川岡勉氏の論文『伊予の中世史料から探る弘法大師信仰の広がり』の中で、この史料についての説明がありますのでそれを引用します。
石手寺刻板文書 寺の由緒を伝えるのが永禄10年(1567)製作とされる刻板文書であり、厚さ1.6センチの板の表面に和銅5年(712)から文明13年(1481)までの安養寺(石手寺の旧名)の由緒と河野伊予守通宣の名前▪︎花押が刻まれ、裏面には建物▪︎文書▪︎寺社▪︎領田▪︎宝物の一覧が刻字されている。表面の由緒書からは、白山信仰▪︎薬師信仰▪︎真言密教▪︎熊野信仰▪︎弘法大師信仰▪︎三島信仰など、さまざまな信仰が当寺に流入し、新たな要素が付け加えられてきたことがうかがわれる。そして、淳和天皇の治世期である天長8年(831)のこととして、浮穴郡江原郷の「右衛門三郎」の話が由緒書に見える。これが衛門三郎伝説の初見である。また、寛治3年(1089)には、白河院の院宣により弘法大師の木像が下賜されて、木像を安置する影堂が建てられたことが見えており、院政期における弘法大師信仰の広がりをうかがわせている。とあります。この文書が製作された永禄10年の出来事として三好三人衆と松永久秀による半年に亘る抗争の結果東大寺の大仏殿が焼失しています。

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