加賀国についての1ー成立の経緯

 賀茂競馬で常に最初に登場して一番と二番が確定しているのは、上賀茂神社の荘園であった美作国倭文庄の馬と加賀国金津庄の馬です。それぞれの馬の故郷である美作国と加賀国ですが、美作国についてはすでに書きましたので、ここでは加賀国について書きます。この二国の共通点は元になる国から分けられて建国されたことです。上賀茂神社から分かれて下鴨神社が出来たのとよく似ています。
 加賀国は越前国から分かれて成立しますが、その前には越前国から能登国が分離されています。奈良時代の養老2年(718)5月2日に養老令制定によるものです。加賀国が越前国から分かれて建国されたのは、平安時代になってから。嵯峨天皇の弘仁14年(823)3月1日です。能登国の成立よりも100年以上が経過しています。現在の福井県は越前国と若狭国から成っていて、越前国の範囲は広くはありませんが、かつての越前国は現在の石川県を含む広さであったことがわかります。この時に越前国から分離されたのは、江沼郡と加賀郡の2郡です。さらに同じ年の6月4日には江沼郡の北部から能美郡(のみぐん)が、加賀郡の南部から石川郡が分けられて、この時点で加賀国は、江沼郡、加賀郡、能美郡、石川郡の4郡になります。なお加賀郡は後に河北郡と呼ばれるようになります。賀茂神社の所在地を河北郡としているのはそういう事情からです。河北郡は宝達山を水源として日本海に注ぐ二級河川(流域が県内のみの河川)の大海川(おおみがわ)が加賀と能登の大まかな境界となっていることから加賀国では最も北に位置します。
 加賀国は嵯峨天皇の時代に成立しますが、これは律令制下の国では最後に建国されたことになります。越前国から分けて新しく国を創る提案は、当時越前守であった紀末成(きのすえなり)によります。
紀末成(781~826)は、幼い頃から理解が早く賢明でよく本を読むことが知られており、嵯峨天皇の時代に地方官を歴任します。加賀国の建国を提案して、それが認められていますから地方官としての実績が評価されていたのでしょう。彼は越前守在任のまま新しく出来た加賀国の国司も兼務します。最終の官位は従四位上越前守です。
 紀末成が加賀国の建国を提案した理由としては、加賀郡が越前国府(合併前の武生市には国府の地名があります。武生市は平成17年に今立町と合併して越前市になりました。紫式部がここで少女時代を過ごしています)から遠く往還に不便で、そのため郡司(ぐんじ、こうりのつかさ)や郷長(ごうちょう)が不法を働いても民が訴えることができずに逃亡し、国司の巡検も難しいということだとされています。要するにこの地域は越前の国司の目が届きにくいので独立させましょうということです。結果として太政官はこの提案を採用して加賀国が成立しました。この時は国の格が中国とされましたが、淳和天皇の天長2年(825)に上国になります。
 郡司は、律令国内の各郡を治める地方官で、その地域の有力者が世襲的に任命されました。郷長は、律令制度の末端組織である郷(ごう、きょう、さと)を統治する官職。郷が里(さと)と呼ばれたときには里長(さとおさ、りちょう)と呼ばれました。
 

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