ハラソ祭ー江戸時代の捕鯨を再現
尾鷲市の飛鳥神社のことを調べていて「ハラソ祭」で飛鳥神社に参拝するという記述を見ました。「ハラソ祭?」。不思議な名前です。その名前にひかれて調べてみました。熊野信仰に由来する祭ではありませんが、飛鳥神社も関わりがあります。それでご紹介することにしました。
この祭は毎年成人の日に行われる江戸時代の鯨突きという漁撈習俗を古式のまま今に伝える祭です。祭当日地蔵寺(曹洞宗、梶賀町163)で、大般若経を転読して鯨の供養と大漁を祈る浦祈祷を行い、それが済むと、この行事の主役である銛(もり)を持つ羽刺(ハダシ)、艫押(トモオシ)、竿取りの三人と水主(カコ)と経験者(指揮者)がハラソ船に乗り込みます。ハラソ船は近隣四郷の総鎮守の飛鳥神社に向かい、神社に着くと鯨突きを奉納した後、岸壁で男衆はそれぞれに赤や白の衣装に着替え、顔全体を白く塗り、その上に口紅で歌舞伎の隈取りのような模様をつけて化粧します。その後、梶賀浦漁港に戻り、途中湾の内外において「ハラソ、ハラソ」の掛け声とともに櫓を使って船を漕ぎ、銛で鯨を射止める勇壮な「古式鯨法」の様子を何度も繰り返しながら到着します。ハラソ船は八梃櫓ですが、普通七梃櫓を用いており、その漕法も最初は「ハンヤ、ハンヤ」の掛け声で普通に漕ぎます。しかし銛を突く場所に近づくと同乗する経験者(指揮者)が艫押にヒカイ回し(左舷へ)とかサイ回し(右舷へ)とか指示します。そして指揮者の「ハラヨイヨイヨ」の叫び声で羽刺は艫先に飛び上がり、水主ら「ヨオヨオ」と囃す中、左右の肘を交互に上げ両手を胸に右肩を脱ぎ、左足を左舷にかけ、サマタにかけてある銛を持ち、突く姿勢をとります。水主の掛け声が「ヨイヨイヨイ」に変わり、力の限り漕ぎまくると、艫押の「ハラヨイハラヨイ」の掛け声で羽刺は銛を投げます。銛が海底に刺さり、見物人が手を叩いて喜んだ後、竿取りが銛を引き上げて元の位置にかけます。又、銛を投げ終わるとハラソ船は普通の漕法になります。以上の漕法で銛突きを全て奉納して祭は終わります。この行事は鯨捕り漁業の古法を伝える貴重な資料として尾鷲市の無形民俗資料に指定されています。
この行事の由来ですが、江戸時代に梶賀浦の湾内に大きな鯨が入ってきて、浦の人たちは船を総出動させて、この鯨を遠巻きにし、銛を使って鯨を仕留めました。鯨は全部が利用できますから、一頭の鯨を捕るとたちまち生活が楽になります。当時九木浦には紀州藩の鯨方役所があり、藩営で捕鯨をしていたため、梶賀浦で鯨が捕れたということを聞き役人が出張して来ました。ところが役人がいる間は鯨は姿を見せず、役人が帰ると又現れました。それで網元の浜中家では本格的に捕鯨に取り組もうと、先進地の太地(たいじ、和歌山県)を見学し、羽刺など勢子(せこ)船の役割を決めました。天明(1781~1789)の頃にも、天保(1831~1845)の頃にも飢饉がありましたが、ここでは鯨が捕れたので浦人は餓死を免れました。江戸時代末期になるとアメリカの捕鯨船が乱獲したため、鯨が来なくなり沿岸捕鯨は終焉を迎えました。梶賀浦では飢饉を救ってくれた鯨への感謝を込めてこの行事を行っています。この行事は三重県神社庁によると、氏神の梶賀神社との関係がはっきりしないそうです。梶賀神社の祭神は稲荷神(倉稲魂命)です。寺での法要や、飛鳥神社に参拝するということからもそれが窺えるかもしれません。
「ハラソ」の語源ですが、銛を打つ人が羽刺(はざし)で、それが「はだし」と訛り、「はらそ」に転訛したとも、また一説には、秦氏(はたし)が中国から漂着して、鯨を突く漁法を教えたことに由来するとも言われているそうです。
日本の沿岸捕鯨の歴史を間近に見られる行事ですから、機会があれは見てみたいです。場所は紀勢本線の「賀田」駅から徒歩約35分くらいだそうです。
さて東紀州の熊野信仰の神社のことを書いてきましたが、『古事記』『日本書紀』において、熊野が重要な舞台となっています「神武天皇」の伝承をみてみたいと思います。『古事記』の伝承を先に公開してしまいました。ご了承ください。