素都乃奈美留命は能登国造と同祖?

「国造本紀」には素都乃奈美留命について、能登(等)国造と祖先を同じくするとあります。能登国造とは後の能登氏のことと思われます。そして「国造本紀」では
能登国造は「志賀高穴穂朝御世、活目帝皇子大入来命孫彦狭嶋命定賜国造」とあります。この記述によると能登国造は志賀高穴穂宮で統治をした成務天皇の時代に、活目帝(垂仁天皇、活目入彦五十狭茅天皇)の皇子大入来命の孫の彦狭嶋命(ひこさしまのみこと)が国造に任じられたということになります。すなわち能登国造には垂仁天皇の曾孫が任じられたということですから、素都乃奈美留命が能登国造と祖先を同じくするということは、彼も垂仁天皇の子孫ということになります。加我国造の大兄彦君は垂仁天皇の皇子磐衝別命の四世の孫ですから、大兄彦君も能登国造と祖先を同じくするということになります。「国造本紀」では大入来命は垂仁天皇の皇子となっていますが、『古事記』では、能登氏は崇神天皇の皇子の大入杵命の後裔氏族となっています。「国造本紀」では、垂仁天皇の皇子の大入来命の孫の彦狭嶋命が能登国造に任じられたとあり、大入来命も大入杵命もどちらも「おおいりきのみこと」と読み、同一人物と思われます。また『日本書紀』では彦狭嶋命は崇神天皇の皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の孫となっており、これに従えば初代能登国造の彦狭嶋命は崇神天皇の曾孫となり、大入来命の存在が消えています。さらに大入来命と大入杵命は同一人物と思われますが、大入来命は垂仁天皇の皇子、大入杵命は崇神天皇の皇子となっています。能登国造の出自に関しては系譜上不確実な部分があり、そういうことからして、素都乃奈美留命が能登国造と祖先を同じくするという国造本紀の記述は疑問点があると言えます。
 志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや)の伝承地となっているのは高穴穂神社で、住所は滋賀県大津市穴太(あのう)1ー3ー1。京阪電車石山坂本線の「穴太」駅から徒歩3分。石山坂本線は石山寺駅から坂本比叡山口駅を結ぶ路線で浜大津駅で京津線と接続します。穴太駅は坂本比叡山口駅の二つ手前の駅です。境内の奥に宮跡の石碑があります。主祭神は景行天皇。配祀神は住吉三神と事代主神。皇居としての高穴穂宮は、『日本書紀』では高穴穂宮、『古事記』や『先代旧事本紀』では志賀高穴穂宮となっています。第12代景行天皇が晩年にこの地に宮居し、次の成務(せいむ)天皇と、その後に即位した仲哀天皇が即位2年後に笥飯宮(けひのみや)に遷るまで3代に亘りここで統治したと言われます。ただし考古学上での遺構は見つかっていません。成務天皇は景行天皇の第四皇子。景行天皇が後継者としていた日本武尊が亡くなったため皇太子になりました。その事績として日本で初めて行政区画を定めたとされ、即位5年に諸国に国造を任命しました。「国造本紀」に記載されている国造の半数は、その設置が成務天皇によるものとされています。能登国造もその一人です。成務天皇が実在したとすると4世紀中頃に在位したことになります。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?