御生神事の起源(6)ー神館その2

「神館」の表記ですが、新木直人氏のブログ「宮司の挨拶」では「神舘」とありますので、「神舘」が正式な名称と思われますが、「神館」の方がよく使われているようですので、当ブログも「神館」と書きます。
前章で、「神館」の構造を記した絵図があり、その識字(しきじ、後から書かれたもの、メモ書き)に建治元年の御幸の時に御所に差し出した図面だとあります。「御幸」とは「熊野御幸」のように上皇が来臨される時に使われますから、建治元年に上皇が「神館」に来られて滞在された(御参篭と書かれています)ということになります。
この御幸に関して先述の「宮司の挨拶」では参篭されたのは亀山上皇であると書いています。さらに永仁四年(一二九六)八月十六日に、亀山上皇の息子の後宇多上皇が参篭された時にもこの絵図が差し出されたこともメモ書きされているそうです。前章で「貴人」と書いていますが、その貴人とは上皇ということになります。そういう事情から、「神館」は貴人の長期滞在が可能な施設であったことが分かります。ただ「神館」は亀山上皇が参篭される以前に規模が縮小されています。
藤原長兼の日記『三長記』によると、「建永元年(一二○六)四月、神館の屋根修理職二付ル。寸法通二縮マリタリ。」とあることから、この時点(13世紀初め)で神館はかなり規模が縮小されていたことが分かります。現存する先述の絵図はこの縮小された時代の絵図になります。
その後、神館は文明二年(一四七○)六月十四日に、応仁文明の乱の兵火によって焼失してしまいます(『親長卿記』)。その後復旧がなかなか進まず、以降の行幸、御幸等は神服殿で、勅祭等は禮殿が使われました。
亀山天皇(1249~1305、在位1260~1274)は第90代の天皇。後嵯峨天皇の皇子で、両親の溺愛を受けて兄の後深草天皇を差し置いて治天の君になります。これがもとで亀山天皇系の南朝(大覚寺統)と後深草天皇系の北朝(持明院統)の対立が生まれる端緒になります。亀山上皇の時に元寇が起こり、治天の君であった上皇は神社に敵国降伏の祈願を行い、自らも伊勢神宮と熊野三山に祈願に赴きます。この時の熊野への御幸が白河上皇に始まる上皇の熊野御幸の最後になります。ちなみに父親の後嵯峨上皇は二回熊野に御幸しています。後嵯峨上皇は熱心な熊野信者であった後鳥羽上皇の孫になります。福岡市の筥崎宮(はこざきぐう)の楼門に大きな「敵国降伏」の額が掲げられていますが、これは亀山上皇の御宸筆を拡大したものです。
後宇多天皇(1267~1324、在位1274~1287)は第91代の天皇。中世日本最高の賢帝の一人と言われます。息子は後醍醐天皇。
『三長記(さんちょうき)』は藤原長兼(ふじわらのながかね)の日記。現存するのは建長6年(1195)から建暦元年(1211)。九条家とその周辺を中心とした当時の政治動向を中心に書かれています。筆者の長兼は生年不詳、没年は建保2年(1214)以降ということです。蔵人頭から権中納言になり、九条家の家司(けいし、親王家や三位以上の公卿、将軍家等に置かれ家政を掌る職員)として九条兼実や良経に仕えました。
『親長卿記(しんちょうきょうき)』は甘露寺親長(かんろじちかなが)の日記。文明2年(1476)9月2日から明応7年(1499)8月までの部分が現存。親長(1424~1500)は正二位権大納言。嘉吉3年(1443)南朝の遺臣が宮中に乱入して三種の神器を奪おうとした禁闕の変(きんけつのへん)で自ら太刀を抜いて応戦した人物。「賀茂伝奏(かもでんそう)」を長く務めています。
『三長記』も『親長卿記』も『増補史料大成』(臨川書店から刊行)に収められています。
賀茂伝奏は国家的に重要な地位にある特定の社寺の奏請を院や天皇に取り次ぐ役職の社寺伝奏の一つ。他に伊勢神宮の「神宮伝奏」、延暦寺の「山門伝奏」、興福寺等の「南都伝奏」があります。

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