磐衝別命は羽咋神社の祭神

 磐衝別命の墓は、石川県羽咋市の羽咋神社の境内にあり、宮内庁により「磐衝別命墓」に定められており、墓の形状は宮内庁では円墳としています。遺跡名は「羽咋御陵山古墳」。磐衝別命の墓は史書には記載がありませんが、大正6年(1917)に宮内省により公式に定められました。宮内庁では円墳としていますが、本来は前方後円墳であったと見られ、5世紀中頃の築造と考えられます。またこの墓に隣接した円墳の「羽咋大谷塚古墳」は同じ大正6年に宮内省により息子の「磐城別王墓」として定められました。親子の墓がともに羽咋神社の境内にあるということになります。
 羽咋神社(はくいじんじゃ)は、石川県羽咋市川原町(かわらまち)エ164にある式内社(小社)です。JR西日本七尾線の羽咋駅から徒歩約5分です。駅の近くにあります。創建年代は不詳。主祭神は石衝別命(羽咋神社の表記)。相殿神は石城別命(いわきわけのみこと、神社の表記)、弟苅羽田刀弁命(おとかりはたとべのみこと、石衝別命の母、即ち綺戸辺)、道反大神(ちがえしのおおかみ)です。道反大神はイザナギの黄泉国訪問の後、黄泉平坂まで追ってきたイザナミに絶縁宣言をした時に道を塞ぐために立てた大岩です。道反大神は明治42年(1909)に七尾線建設予定地にあった羽咋七塚の1つ「姫塚」の上に祀られていた三俵苅(さんびょうかり)社の祭神で、羽咋神社に合祀されました。また、石衝別命の母、すなわち垂仁天皇の妃として綺戸辺を祀っています。石衝別命の母には当ブログの「母が二人?」に書いていますが、真砥野媛という伝承もあります。道反大神以外は、初代の羽咋国造となった石城別命とその父親と父方の祖母を祀っています。
 磐衝別命について羽咋市のサイトによると、垂仁天皇の時代、羽咋地方一帯には疫病が流行し、盗賊が横行。加えて滝崎の森に大毒鳥が出現して住民を苦しめたため、その鎮圧の使いとして、垂仁天皇の命によって石衝別命が派遣され、石衝別命は盗賊や毒鳥を退治し、また農業を奨励するなど仁政をしいたため、人々は安心して生活できるようになり、命が亡くなった後墓を築いて埋葬し、その恩徳を子孫に伝えるため神霊を社に祀ったのが羽咋神社の起源と伝えられています。石衝別命の命日である9月25日には、旧別当寺の本念寺で報恩講が営まれ、また相撲好きであった命を偲んで、唐戸山では古くから神事相撲が行われてきました。住民を苦しめていた毒鳥を倒した時に、命の3匹の飼い犬が怪鳥の羽を喰ったことから「はくい」の名が付いたという伝説があります。羽咋神社は桜の名所であり、御陵山の水という銘水が湧いています。とあります。
 怪鳥が出現したという滝崎は羽咋市内にあります。
 羽咋神社は延長5年(927)に成立した『延喜式』神名帳において、能登国羽咋郡(はくいのこおり)羽咋神社(はくひのかみやしろ)として記載されています。論社はありません。能登国の式内社は43座あり、大社は1座で残りの42座は小社です。この大社1座とあるのは同じく羽咋市に鎮座する能登国一宮の氣多(けた)大社です。 
 羽咋神社は明治5年(1872)郷社となり、明治14年(1881)に県社に昇格しました。


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