明石の稲爪神社ー越智益躬の鉄人退治の2

 越智益躬の鉄人退治の記事を収録している『播磨鑑(はりまかがみ)』は、江戸時代の地誌であり、著者は医師であり暦算家の平野庸脩(ひらのようしゅう)です。庸脩は播磨国印南郡(いんなみぐん)平津(ひらつ)村の人。平津村は現在は兵庫県加古川市米田町(よねだちょう)平津です。『播磨鑑』は出版物ではなく自筆手稿本で、庸脩が長年にわたり播磨国にまつわる景勝地、地名、城地、神社仏閣、旧跡、人物、風俗などについて採取した情報が記載されています。『播磨国風土記』『論語』『万葉集』『太閤記』など、当時収集しうるかぎりの100近い地方史文献を参照したとされています。各種伝本▪︎写本が多く、その中で姫路藩主酒井家への献上本がよく体裁を整えているとされます。この酒井家への献上本には宝暦12年(1762)の年号が記されています。庸脩の居住地である平津村は、宮本武蔵が生まれたという印南郡米田村(よねだむら)から徒歩10分以内の隣村です。そういうところから宮本武蔵の養子であり、土地の名士である伊織について詳細に記述しています。印南郡米田村は現在は兵庫県高砂市米田町米田になります。 
 越智益躬が九州から鉄人らを船で案内して瀬戸内海を通り室津に上陸して馬に乗り換えて明石に来て、そこで大山祇神の神助により益躬は鉄人らを討伐します。益躬らが上陸したのは、現在の兵庫県たつの市御津町(みつちょう)室津(むろつ)です。伝えによると室津は神武天皇の東征先導役が室津に港を建設したといわれ、『播磨国風土記』に「コノ泊、風ヲ防グコト室ノゴトシ故二因リテ名ヲナス」とあるように、室津湾の東側奥にあり、波が穏やかなことから、風待ち港となり、奈良時代には行基によって定められた「摂播五泊」の一つとなりました。海上と陸上交通の要衝として「室津千軒」と呼ばれるほど繁栄します。江戸時代になると、参勤交代の西国大名の殆どが海路で室津港に上陸して陸路を進んだため、港の周辺は日本最大級の宿場となりました。また、朝鮮通信使の一行も室津に上陸しています。通常、宿場に置かれる本陣は、1軒か多くて2軒のところ、室津には6軒ありました。明治に入ると参勤交代の制度がなくなり、また鉄道や道路が内陸部に敷かれたため、室津は急速に衰退し、瀬戸内海の一漁港に過ぎなくなります。この付近はカキの養殖が盛んです。室津を含む御津町は平成17年(2005)10月1日にたつの市になりました。室津には賀茂神社があります。鎮座地は室津74番地。祭神は賀茂別雷神と彦火火出見尊(山幸彦)です。平安時代に賀茂別雷神社(上賀茂神社)の直系御厨の地となったため賀茂神社が祀られるようになりました。江戸時代末期にはシーボルトが訪れ参籠所からの播磨灘の眺めを絶賛しています。シーボルトは文政6年(1823)に、長崎のオランダ商館の医師として長崎に到着し、文政9年(1826)のオランダ商館長の江戸参府に随行して2月15日に長崎を出発し江戸には4月10日に到着しています。九州は陸路を移動し、瀬戸内海は海路をとり、室津には3月7日に到着し、9日に江戸、に向けて陸路で出発しています。室津は、平成29年(2017)4月28日に日本遺産No.039「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地▪︎船主集落~」に選定されています。室津への交通アクセスは、山陽電車の山陽網干駅から神姫(しんき)バスで25分「室津」下車です。

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