鈴木重家の後日談(3)ー南三陸町の小森御前社と栗原市の熊野神社

宮城県本吉(もとよし)郡南三陸町(みなみさんりくちょう)といえば平成23年(2011)3月11日の東日本大震災の津波で大きな被害を受けました。皆さんもご存知だと思います。その南三陸町志津川小森(しずがわこもり)に「小森御前社(こもりごぜんしゃ)」があります。この神社に祀られているのは、鈴木重家の妻である「小森御前」です。小森御前は生まれた年は不明ですが、亡くなったのは重家と同じ文治五年(1189)です。重家が義経のもとに赴く際に子供をみごもっていたので紀州に残されますが、夫を慕ってわずかな家来とともに後を追います。しかし平泉に向かう途中のこの地に来た時に、夫が戦死したことを聞き乳母とともに八幡川に身を投げて自害しました。憐れに思った村人たちが祠を建てて祀ったのが「小森御前社」です。この神社も大津波で流されてしまいましたが、平成25年(2013)に有志の人たちによって震災からわずか2年で復興されました。地域の人たちの小森御前を慕う気持ちが伝わってきます。
神社は国道398号線沿い、平成28年(2016)に供用開始の三陸沿岸自動車道志津川インターの近くにあり、鮮やかな赤い鳥居が目を引きます。再建にあたり山の麓から中腹に移されました。なお、小森御前は自害せずにこの地に住んで村人から慕われたという伝承もあります。前者の伝承は悲劇的ですが、後者は心がやすまります。後者であってほしい気がします。
なお、南三陸町入谷入大船沢(いりやいりおおぶねざわ)に熊野神社があります。梨木畑の西城家の氏神で、西城家が旧姓の鈴木を名乗っていた頃紀州より携えてきた持仏を祀ったものといわれています。
また、志津川城場(じょうば)にも熊野神社があり、『封内風土記』巻之十四には「現在祭神不詳、本地仏聖観音、御館権太郎藤原清衡所護持仏也」とあります。封内風土記(ふうないふどき)は、仙台藩が儒学者の田辺希文(たなべまれふみ)に命じて編纂させた地誌で、1772年(明和9年、安永元年)に完成。全22巻で漢文で書かれています。この神社は大長家の氏神であり、同家に伝わる「熊埜大権現縁起」(安政4年、1858)には清衡の建立で、亀井六郎重清、鈴木三郎重家によって崇敬されたとの記述があります。
南三陸町から平泉に行く途中の宮城県栗原市若柳大林境前10番地に「熊野神社」があります。祭神は伊弉冉命。この神社の由緒によると、義経が平泉に下向の際、従者の鈴木三郎重家は老母の病を看病するため郷里紀州の藤代にいたが、義経への思いは断ちがたく病気の母に別れを告げて、義経の後を追って文治四年(1188)この地に来たところ、夕日を浴びた森の上空には、めでたい鳥であるといわれている「かささぎ」が空いっぱいに飛んでおり、重家はこれを吉兆と感じ、ここに故郷の氏神である熊野神社を祀り、本社と本社より西方一直線に三町(約330m)毎に阿弥陀如来と薬師如来を安置し、その間に一株の杉の樹を植えたといいます。現在は神社の杉のみが残り、市指定の天然記念物「熊野神社の大杉」と呼ばれています。また本殿内には重家が使用していたという笈(おい)一個と円光大師の作という不動明王像が保存されているそうです。明治10年(1877)村社。
笈(おい、きゅう)は書籍、経巻、仏具、食器などを入れて背負って歩く道具。現在のリュックサックのような物です。
円光(圓光)大師は法然(1133~1212)の大師号の一つ。法然の大師号は、500年遠忌の行われた正徳元年(1711)以後、50年ごとに天皇から追諡され、平成23年(2011)現在8つの大師号があり、日本史上最大です。
この熊野神社の西方1里ほどの場所に重家の妻が建立したという寺があります。次章に続けます。


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