那須国造の系譜に登場する人物ー大彦命と武埴安彦の謀反

 大彦(おおひこ、おおびこ)命は、『日本書紀』では「大彦命」、『古事記』では「大毘古命」と表記され、また稲荷山古墳出土鉄剣の銘文にある「意富比垝」に比定する説があります。大彦命は第8代孝元天皇の第一皇子で、第二皇子が第9代開化天皇です。崇神天皇10年に四道将軍の一人として北陸に派遣されますが、その際に武埴安彦の謀反を暴きます。『日本書紀』の本文を引用します。
(崇神天皇十年)九月丙戌朔甲午、以大彦命遣北陸、武渟川別遣東海、吉備津彦遣西道、丹波道主命遣丹波。因以詔曰「若有不受教者、乃擧兵伐。」既而共授印綬爲將軍。壬子、大彦命、到於和珥坂上、時有少女、歌之曰、一云、大彦命山背平坂、時道側有童女歌之曰、彌磨紀異利寐胡播揶、飫廼餓鳥塢、志齊務苔 農殊末句志羅珥 比賣那素寐殊望 一云「於朋耆妬庸利 于介伽卑氐 許呂佐務苔 須羅句塢志羅珥 比賣那素寐須望」 於是、大彦命異之、問童女曰「汝言何辭。」對曰「勿言也、唯歌耳。」乃重詠先歌、忽不見矣。大彦命乃具以狀奏。於是、天皇姑倭迹々日百襲姫命、聰明叡智、能識未然、乃知其歌怪、言于天皇「是武埴安彦將謀反之表者也。吾聞、武埴安彦之妻吾田媛、密来之、取倭香山土、裏領巾頭而祈曰『是倭國之物實』乃反之。物實、此云望能志呂。是以、知有事焉。非早圖必後之。」於是、更諸將軍而識之。未幾時、武埴安彦與妻吾田媛、謀反逆、興師忽至、各分道、而夫從山背、婦從大坂、共入欲襲帝京。時天皇、遣五十狭芹彦命、撃吾田媛之師、卽遮於大坂、皆大破之、殺吾田媛、悉斬其軍卒。復遣大彦與和珥臣遠祖彦國葺、向山背、撃埴安彦。爰以忌瓮、鎭坐於和珥武●(金へんに繰の糸へんを省く)坂上。則率精兵、進登那羅山而軍之。時官軍屯聚而●(てき、足へんに鏑の金へんを省く)●(しょ、足へんに蛆の虫を省く)草木、因以號其山曰那羅山。●(てき)●(しょ)、此云布彌那羅須。更避那羅山而進到輪韓河、與埴安彦、挾河屯之、各相挑焉、故時人改號其河曰挑河、今謂泉河訛也。
埴安彦望之、問彦國葺曰「何由矣、汝擧師來耶。」對曰「汝逆天無道、欲傾王室。故擧義兵、欲討汝逆、是天皇之命也。」於是、各爭先射。武埴安彦、先射彦國葺、不得中。後彦國葺、射埴安彦、中胸而殺焉。其軍衆脅退、則追破於河北、而斬首過半、屍骨多溢、故號其處、曰羽折苑。亦其卒怖走、屎漏于褌、乃脱甲而逃之、知不得免、叩頭曰「我君。」故時人、號其脱甲處伽和羅、褌尿處曰屎褌、今謂樟葉訛也、又號叩頭之處曰我君。叩頭、此云廼務。〈この後に三輪山の大物主神が倭迹々日百襲姫のもとに通ってくるという話が書かれていますが、それは省略します。〉そして『日本書紀』では、(崇神天皇)十一年夏四月壬子朔乙卯、四道將軍、以平戎夷之狀奏焉。是歳異俗多歸。國内安寧。となっています。
 『日本書紀』の崇神天皇十年に四道将軍がヤマト王権の勢力拡張のために派遣されますが、その一人の北陸平定のために出発した大彦命は途中で少女が歌う歌の内容に疑問を抱き、進軍を中断して崇神天皇の皇居に戻り、その歌の内容が武埴安彦の謀反を暗示していると倭迹々日百襲姫が謎解きを行い、謀反の兵を挙げた武埴輪安彦とその妻の吾田媛が滅ぼされたという経緯が書かれています。その後は四道将軍が予定通り出発して翌年の四月には任務を果たしたと復命しています。出発してから復命するまで半年ほどですから、この四道将軍の戦果というのはどの程度のものだったのか疑問です。


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