酒船石では水を使った祭祀が行われていた?
斉明天皇が造らせた大溝、これを当時の人は「狂心渠」と呼んで非難したということです。「狂心渠」という言葉を本当に当時の人が言ったのかどうかわかりません。もしかすると日本書紀の編者の創作かもしれません。「狂心渠」とはこの水路が正気の沙汰とは思えないほどの大規模な工事であったということを意味します。
おくまんさまがこの「狂心渠」について詳しく紹介した理由は、相原嘉之氏のインタビュー記事に、この水路のスタート地点が酒船石遺跡であったと書かれていたことにあります。すでにこのブログで書いていますが、飛鳥山口坐神社の本来の鎮座地(飛鳥山口坐神社は現在は飛鳥坐神社に飛鳥山口神社として祀られています)がこの酒船石の場所であり、その根拠として、飛鳥山口坐神社の旧社地は『五郡神社記』によると「賀美郷飛鳥山裂谷、飛鳥川川上」にあるとされ、その「裂谷」は大矢良哲氏によると、「裂谷」は「阪谷」と「酒谷」という小字を指し、その間に「酒船石」があるとなっています。そういうところから飛鳥山口坐神社は酒船石の付近にあったのではないかということになります。一方の「石村山口神社」については同じ五郡神社記に「池上郷石寸山裂谷、石寸川川上」にあるとなっています。賀美郷と池上郷と在所は異なっていますが、どちらも鎮座地として「裂谷」という名前が共通しています。またどちらも川の上流にあることも共通しています。「裂谷」という名前が飛鳥の地に多く存在しているとは考えにくいです。そうするとこの二つの山口神社はもともと「裂谷」にあったのではないかと言えます。そしてその場所は酒船石のある場所と言えます。酒船石は謎の石造物と言われます。石の表面に窪みと溝があり、それが互いに繋がっています。この窪みに水を入れるとそれが別の窪みに溜まります。その溜まった水の量やその溜まる速さによって神のお告げを聞いたのではないかと考えられます。ヤマト王権にとって重要な事柄について神の意思を問うという秘儀が行われていたということから、酒船石についての記録を残さなかったということになります。この場所が神聖な場所であったことは、酒船石のある丘が人の手が加えられて造られていることからもわかります。酒船石では神を迎えて、その神託を水を使って聞くということが行われていたと考えます。そしてこの祭祀を自ら執り行ったのが斉明天皇であり、その神聖な水をやはり神聖な場所である石上山(天理市)に流すために造らせたのが「狂心渠」と非難された水路であったと言えます。この水路は石上山の土を運ぶためのものであると日本書紀には書いています。もちろんその用途があったことは確かですが、日本書紀ではこの水路が香山(香久山)をスタートとし、ゴールは石上山としていて、酒船石のある場所とは書いていません。これは本当のスタート地点を知らせたくないということからです。この水路には酒船石での祭祀に使われた神聖な水が流れており、その水路を通って運ばれた石が亀形石造物の造営に使われています。運ばれる途中で石が神聖な石になるということになります。その石で造られた亀形石造物とはどのようなものなのでしょうか。