熊野穂積氏の初代は役行者の弟子?

「子之神社(ねのじんじゃ)」は湯河原温泉で知られる神奈川県足柄下郡湯河原町福浦(ふくら)129番地に鎮座します。JR東海道本線真鶴駅から徒歩15分。祭神は大己貴命、素戔鳴尊、天照國照彦天火明櫛甕玉饒速日尊(アマテルクニテラスヒコアメノホアカリクシミカタマニギハヤヒノミコト)、倭健尊(ヤマトタケル)、熊野三所大権現(家都美御子大神ケツミノミコ、速玉男神、熊野夫須美大神)、金剛蔵王権現、市杵嶋比賣命、子守大神(コモリノオオカミ)、天地坐八百萬神(アメツチニイマスヤオヨロズノカミ)です。ニギハヤヒ、熊野権現、金剛蔵王権現が祀られていることがこの神社の性格を物語っています。
子之神社という名前は珍しく感じます。神奈川県に比較的多く、東京都、埼玉県、千葉県、静岡県、山梨県にみられます。こちらの神社もそうですが大己貴命(大国主神)を祀っています。
湯河原の子之神社の由緒は、社伝によると、遥か太古の昔、大海原の彼方から、龍王、妃、王子の三柱の神々が荒藺乃崎(現在の真鶴崎)に船に乗って到着し、当地を開拓したと伝えられています。龍王、妃、王子という組み合わせは熊野三所権現を連想させます。文武天皇4年(700)穂積濃美麻呂が師の役行者と当地を訪れ、陰陽の秘法でもって、金剛蔵王大権現、弁財天、子守大明神を祀り、その時に「霊妙なる薬湯」を発見したのが、現在の湯河原温泉です。その後、天暦(てんりゃく、村上天皇)7年(953)に濃美麻呂の十代目の子孫穂積俊基(としもと)が湯河原海岸の「竜宮の鼻」と呼ばれる大岩に金色に輝く神霊が降臨されたのをお迎えして初めて社殿を建て、これが当社の創建とされています。以来穂積氏が宮司となり現在まで続いています。
戦国時代の明応10年(1478)後醍醐天皇の玄孫の小倉宮尊成親王は都の戦乱を逃れて当地に身を寄せ、時の神官大和守重勝の娘、安津佐姫(アヅサヒメ)と結婚し神職となりました。親王はこの地に来る前に奈良県吉野の金峰山で修行に励んでいた折に、大天狗から法力を授けられた故事により「天佑」と称し、この名前が後の代々の宮司の法名となりました。
以上かいつまんで子之神社のサイトの内容を紹介しました。子之神社の宮司は現在も穂積氏の伝統であるニギハヤヒが行っていた十種神宝の秘法を伝えており、それに修験道の護摩を加えた独自の祈祷を行っています。神社の公式サイトには詳しく書かれていますから、関心のある方はそちらをご覧ください。
子之神社の伝承では、熊野穂積氏の初代である濃美麻呂は役行者の弟子とあります。役行者は8世紀の初め、奈良に都が遷る前に亡くなっています。その弟子ということからすると、濃美麻呂は飛鳥時代の末頃から奈良時代の初めの人ということになります。濃美麻呂は一般には穂積老の子とあります。史実では老は恭仁京の留守役をしていますから聖武天皇の時代の人になります。子之神社の伝承からすると老の子とは言えなくなります。ウィキペディアでは老の子とは断定していません。史料の裏付けがないようです。ただ子之神社の伝承で注目したいのは、濃美麻呂が役行者の弟子であるということです。役行者は熊野でも修行を行ったという伝承がありますから、濃美麻呂は役行者本人ではなくその弟子かもしれませんが、その人物とのつながりで熊野と縁があって、それが彼が熊野に移住する動機となった可能性があります。
小倉宮(おぐらのみや)ですが、史実では南朝の後亀山天皇の皇子を初代として三代目が亡くなった1443年に断絶しています。また尊成親王は後鳥羽天皇の名前ですから、小倉宮尊成親王という人はどういう存在なのかよくわかりません。吉野にいたということですから、南朝の系統に属する人物かもしれませんが、すぐれた霊能者であったことは間違いなさそうです。
子之神社は神奈川県の湯河原ですから、熊野とはずいぶん離れた場所です。しかし船で黒潮に乗っていけば到達できなくはありません。ここに熊野穂積氏の初代濃美麻呂の足跡があるというのは興味深いです。


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