善光寺如来縁起の補足説明の3ー崇仏派と排仏派の対立
欽明天皇の皇居は、「磯城嶋金刺宮(しきしまのかねさしのみや)」とされています。『古事記』では「師木島大宮」。皇居跡とされる場所は奈良県桜井市慈恩寺(じおんじ)にあり、公園になっています。桜井市出身の文芸評論家の保田與重郎(やすだよじゅうろう)の揮毫になる「欽明天皇磯城嶋金刺宮址」の石碑が立っています。また「仏教傳来之地」の碑があり、柿本人麻呂の歌碑もあります。初瀬川(はせがわ)と粟原川(おおばらがわ)に挟まれたこの地域はかつて磯城嶋と呼ばれ、古くは室町時代に法隆寺僧訓海が著した『太子伝玉林抄』、元禄元年(1765)の並河永らによる『大和志』、大正3年(1914)の大神神社宮司斎藤美澄による『大和志料』により、この地域に金刺宮があったものと推定されています。『太子伝玉林抄』によると、室町時代には金刺宮の内裏跡は、現在地より東北約百メートルにある字垣ノ内一帯にあったとの伝承が既に存在していたようだったと書かれています。
『太子伝玉林抄(たいしでんぎょくりんしょう)』は文安5年(1448)に訓海によって書かれた『聖徳太子伝暦(しょうとくたいしでんりゃく)』の注釈書。『聖徳太子伝暦』は平安時代に書かれ、数多くの聖徳太子伝承▪︎伝説はすべてこの書に集大成され、この書から流布していったと言われます。並河永は並河誠所のことであり『大和志』を含む『五畿内志』を編纂しています。『五畿内志』は当ブログで既に説明しています。大神神社宮司の斎藤美澄(さいとうよしずみ、1857~1915)は山形県酒田市に生まれ、神職斎藤清澄の養子になります。古事記▪︎日本書紀に造詣が深く、明治13年(1880)奈良県の大和(おおやまと)神社に招かれて神職となり、県知事の委嘱をうけて大和志料の編纂に従事。明治25年(1892)大神神社の宮司となり、翌年帰郷して、吹浦の大物忌神社宮司となり、後に酒田日枝神社宮司をつとめます。『大和志料』は全10巻。
欽明天皇の皇居であった磯城嶋金刺宮では、百済の聖明王の使者がもたらした仏像を前にして、この仏像や共に伝えられた経典を受け入れるかどうかの議論が展開されました。受け入れることに賛成したのは蘇我稲目、反対したのは物部尾輿と中臣鎌子です。蘇我稲目(506?~570)は欽明天皇の前の宣化(せんか)天皇の元年(536)に大臣となり、欽明天皇が即位すると娘の堅塩媛(きたしひめ)と小姉君(おあねのきみ)を天皇の妃として、天皇との結びつきを強めます。堅塩媛が生んだ子供は後に用明天皇と推古天皇となり、小姉君の生んだ子は暗殺された崇峻天皇です。用明天皇の皇子は聖徳太子ですから、太子は稲目の曾孫になります。明日香村阪田に稲目の墓ではないかと言われている「都塚(みやこづか)古墳」があります。稲目の息子の馬子の墓とされる「石舞台古墳」から400メートルほど離れた場所にあり、墳丘が石を階段状に積み上げた階段式ピラミッドのような形をしていることが大きな話題になりました。物部尾輿は、欽明天皇元年に天皇の父の継体天皇擁立に功績のあった大伴金村が任那4郡を百済に割譲したことを失政として追及し、金村を政界から引退させています。かなり攻撃的な人物のようです。中臣鎌子は生没年不詳です。中臣氏は本来朝廷の祭祀を職掌とする家柄ですから、その立場上仏教の受容に反対の立場をとったということになります。