磯長にある科長神社

 聖徳太子の墓は「磯長墓(しながのはか)」、また叡福寺の山号も「磯長山(しながさん)」と言い、太子町のこの付近は「磯長谷」と呼ばれます。そして同じ太子町にあって「しなが」の名前を持つ神社があります。この神社は漢字で「科長」と書きます。「磯長神社」ではありません。ややこしいですね。 
 科長神社は太子町山田3778にあります。この神社の社頭には小野妹子の墓があります。聖徳太子とご縁があります。 
 科長神社の主祭神は、級長津彦命(シナツヒコ)と級長津姫命(シナツヒメ)の2柱の風の神です。配祀神は、素盞鳴命、品陀別命、建御名方命、武甕槌命、経津主命、天児屋根命、天照大神。合祀神は、天御柱国御柱大神、天児屋根命、弥陀別命、八坂大神、道祖大神、保食神、菅原道真、市杵島姫命、天照大神です。かなり多くの神様を祀っていますが、合祀神として天御柱国御柱神が祀られています。この神は、奈良県生駒郡三郷町(さんごうちょう)立野南(たつのみなみ)1丁目29ー1 にある「龍田(たつた)大社」の祭神で風の神です。龍田大社はかつては龍田神社と呼ばれ、式内社、二十二社(中七社)で旧官幣大社です。
 科長神社の創建の由緒は不詳です。元は二上山の上に鎮座しており、二上権現と称していました。『延喜式神名帳』 には「河内国石川郡科長神社」と記載されている小社です。科長神社が二上山から現在地に遷座したのは、四条天皇の暦仁(りゃくにん)元年(1238)。この場所にはもともと恵比須神社(一名土祖神社)が祀られており、科長神社の遷座に伴い恵比須神社は末社として祀られるようになりました。 
 科長神社の所在する場所は神功皇后の誕生地だとする伝説があり、科長神社には社宝として神功皇后所用と伝えられる雛形の兜が所蔵されています。『式内社調査報告』によると、「科長→磯長→息長」となったとあります。神功皇后は息長足(帯)姫(おきながたらしひめ)と言い、息長氏の出身です。科長(しなが)が息長に転訛したことで、この地に神功皇后誕生地の伝承が生まれたということになりますが、果たしてどうでしょうか。
 科長神社は二上山に鎮座していたとあり、『延喜式神名帳』の河内国石川郡に記載されています。『延喜式』に登載された時は二上山にあって、現在の鎮座地ではありませんが、その時にも太子町にゆかりの「しなが」を名乗っています。「科長」と「磯長」のどちらの表記が古いのかということになります。科長神社の「しなが」は祭神の風の神であるシナツヒコに由来すると思われます。従って藤原頼孝が科長神社を遷す時に同音の磯長の地にしたとも考えられます。
 ウィキペディアによると、磯長は蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)の本貫地であったと書いています。科長神社の鎮座地の山田は倉山田石川麻呂の山田に由来するということになります。
 鎌倉時代の13世紀には、叡福寺も「科長寺」とも呼ばれていました。また、叡福寺の鎮守社として科長岡社が寺の境内に鎮座しています。

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