善光寺如来縁起の補足説明の2ー百済と日本への仏教伝来

 百済の聖明王は日本に仏教を伝えた人物とされます。『日本書紀』では聖明王又は聖王とも書かれています。生まれた年は不詳ですが、没年は554年で、これは新羅の伏兵に襲われたことによる戦死です。先代の武寧王(ぶねいおう、462~523)の子供に生まれ、武寧王の死により第26代の百済王に即位します(在位は523~554)。529年には高句麗との戦いに敗れ都を扶余郡に移し、国号を「南扶余」とします。王は新羅に対抗するために倭(ヤマト王権)との連携を図ります。その一つとして日本に仏教を伝えたということになります。また王は国内でも仏教を保護しています。善光寺如来の縁起では、王は月蓋長者の生まれ変わりとしています。
 百済の聖明王の使者が仏像(この仏像が善光寺の本尊とされます)と経論を欽明(きんめい)天皇に献上します。これが仏教公伝で、欽明天皇13年のこととされます。天皇は仏像を礼拝することの可否を群臣に求めました。その時に大臣の蘇我稲目(そがのいなめ)は「西蕃諸國一皆禮之豐秋日本豈獨背也」と答えて礼拝することを肯定します。これに対して大連の物部尾輿(もののべのおこし)と連の中臣鎌子(なかとみのかまこ)は、「我國家之王天下者恆以天地社稷百八十神春夏秋冬祭拜爲事方今改拜蕃神恐致國神之怒」と言って反対します。天皇は仏像を蘇我稲目に預けて礼拝することを容認します。 
 百済から仏教が伝えられた年は、『日本書紀』では欽明天皇13年(552)とあり、『上宮聖徳法王帝説』では西暦538年のこととされています。
 蕃神(ばんしん、あだしくにのかみ、となりのくにのかみ)とは、異国が祀ってきた神のことで、神道が信仰されていた日本においては、仏教伝来当初は仏を蕃神と呼びました。 
 欽明天皇(509~571、在位は539?~571)は第29代天皇。新しい皇統を開いたとされる継体天皇が応神▪︎仁徳の系統をひく手白香皇女(たしらかのひめみこ)と結婚して生まれました。以後欽明天皇の系統が皇位を継いでいきます。欽明天皇の即位した年に疑問符が付いています。この時期の歴史を記録した文献資料において不自然な点が存在することから継体▪︎欽明朝内乱説が唱えられています。継体天皇の崩御とその後の皇位継承を巡り争いが発生したとの仮定に基づきます。この内乱が発生した年を『日本書紀』で継体天皇が崩御したとされている辛亥の年(531年)と具体的に定めて辛亥の変(しんがいのへん)と呼ぶ説もあります。『上宮聖徳法王帝説』『元興寺伽藍縁起』では欽明天皇の即位した年が辛亥の年とされ、継体天皇の次の天皇が欽明天皇であることになります。そうすると安閑▪︎宣化天皇は皇位についていないことになります。一方『古事記』では継体天皇は丁未の年(527)に崩御したことになっています。『日本書紀』では、宣化天皇四年冬十月に宣化天皇が崩御し、その年の十二月に欽明天皇が即位したと書かれています。また日本の史料ではありませんが、『百済本記』には、継体天皇が崩御したとされる辛亥の年のこととして「日本の天皇及び太子▪︎皇子俱に崩薨」とあり、継体天皇が崩御した時に太子や皇子が同時に亡くなるような大事件が起きたことを暗示しています。こうしたことから欽明天皇の即位した年に疑問符が付いていることになります。


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