式内社宇留神社の論社ー宇留春日神社の2

 宇留春日神社の由緒についての続きです。当社は飛鳥時代の斉明天皇の時代に現在地に遷座した時に社殿が新築され、平安時代に入った嵯峨天皇の弘仁12年(821)に再建され、現在の社殿は江戸時代の18世紀後期の建造物とあり、平安時代から江戸時代までの社殿の造営については書かれていません。戦乱の時代もありましたから、その影響を受けて何度か再建されただろうと思います。 
  『兵庫県神社誌(ひょうごけんじんじゃし)』は、兵庫県神職会の編集で昭和12年(1937)から15年(1940)にかけて刊行され、昭和59年(1984)に復刻版が出ています。上中下付録からなる全4巻で、上巻は摂津▪︎丹波、中巻は播磨、下巻は但馬▪︎淡路で、付録は県下全域の無格社について神社名、祭神名、鎮座地を記しています。この『兵庫県神社誌』では、当社が春日神社となった経緯について、当社の祭神が奈良の春日大社の神と同体であったからとしています。ということは春日大社から勧請したのではなくて神社の名前を宇留神社から春日神社に変更したということになります。用明天皇の時代に創建された頃の祭神名はわかりません。斉明天皇の時代に宇留山に遷座したことから宇留神社と呼ばれたとありますから、宇留の名は地名ということになります。平安時代の延喜式神名帳が編集された時も宇留神社を名乗っていましたが、その後、藤原氏の隆盛とともにその氏神である春日の神を祀る神社が各地に勧請され、当社もその流れにしたがったものと思われます。
 宇留神社の論社である稲爪神社には、祭神として宇留命が祀られています。「宇留」という神名は珍しいです。「宇留」とは「布留(ふる)」の転訛だとする説があります。この説に従えば、宇留命は饒速日命につながる物部氏系の神ということになります。用明天皇の時代にこの地に物部氏にゆかりの神が祀られたということであり、その神が延喜式に登載されたということになります。
 宇留春日神社のある神戸市西区の丘陵地帯は高度経済成長期に西神(せいしん)ニュータウンとして大規模に開発されました。ただこの丘陵の麓にあたる明石川の谷である当社付近はのどかな光景がまだ残っています。
 宇留春日神社は旧社格は村社でまさに村の鎮守という感じの神社です。境内には、末社として稲荷社、若宮社、御門社があり、社伝にある神武天皇が遠望したという神武天皇遥拝所の石碑があります。 
 宇留春日神社は宮前地区の東側にある丘陵上に鎮座しており、丘陵の西麓に入口があります。鳥居が西向きに建っていてそこから石段を上がると正面に能舞台があります。この能舞台を回り込む形で参拝します。石段を上がったすぐ左側に江戸時代の手水鉢があり、もう一ヵ所新しい手水舎もあります。社殿は西向きに建っていて、拝殿は本瓦葺の平入り入母屋造。拝殿の背後は塀で囲まれており、幣殿と本殿が覆屋の中に納められています。能舞台は本殿と相対する形で建っており、橋掛かりを設けた本格的なものです。
 宇留春日神社へのアクセスは、JR
明石駅より神姫バス南1番乗り場で35、37番のバスに乗車「平野連絡所前」下車徒歩7分。または神戸市営地下鉄「西神中央駅」から徒歩40分(3.1km)です。
 


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