敏達天皇時代の崇仏派と排仏派の争いの2
物部守屋によって蘇我馬子と共に面罵された司馬達等(しばだっと、しばたちと、しばのたちと、しめたちと、生没年不詳)は、『日本書紀』雄略天皇7年に百済から渡来した工匠の鞍部堅貴(くらつくりのけんき)の一族の帰化人で、飛鳥寺にある飛鳥大仏を造った鳥仏師(鞍作止利)は孫になります。仏教が公的に伝わる以前から仏教を信奉していたと言われ、『扶桑略記』には次のような記事があります。「日吉山薬恒法師法華記云、延暦寺僧禅岑記云、第廿七代継体天皇即位十六年壬寅、大唐漢人案部村主司馬達正、此年春二月入朝、即結草堂於大和国高市郡坂田原、安置本尊、帰依礼拝、挙世皆云、是大唐神也、出縁起、陰者見此文、欽明天皇以前、唐人持来仏像、然而非流布也。」とあります。この記事には司馬達等が高市郡坂田原に草庵を結んだとありますが、その草庵が始まりとされるのが明日香村阪田(さかだ)408にある坂田寺(さかたでら)です。坂田寺は後に我が国最初の尼寺となり、飛鳥時代には豊浦寺と並んで栄えました。平安時代には金剛寺とも言いましたが、次第に衰えていきます。司馬達等は敏達天皇13年(584)に播磨国で髙麗からの渡来僧でその後還俗していた恵便(えびん)に依頼し、娘の嶋(善信尼)とその弟子2人を出家させています。また馬子が邸宅内に仏殿を建て、請来した弥勒仏を安置した際には、仏舎利を献上し、法会を開催したとされています。
坂田寺跡は昭和47年(1972)奈良国立文化財研究所によって最初に発掘調査が行われました。そこで明らかになったのは主に奈良時代の遺構で、創建当時の姿は不明な点が多いとされます。蘇我稲目の墓かもしれないとされる「都塚古墳」も坂田寺跡の近くにあります。
物部守屋が敏達天皇の命令で寺を破壊しに行った時に腰掛けたという胡床(こしょう)は、脚を交差させて折り畳めるようにした一種の椅子です。座面は布製です。神社で祈祷や祈願の際によく使われますから目にする機会があります。
善信尼らが暴行を加えられた場所とされる海柘榴市(つばいち)は、海石榴市、椿市、都波岐市とも表記されます。柘榴は「ざくろ」、海石榴で「つばき」。海柘榴市の場所は桜井市金屋付近とされています。現在は住宅地になっていて遺跡があるわけではありません。この場所に案内看板があります。「海柘榴市 ここ金屋のあたりは古代の市場海柘榴市のあったところです。そのころは三輪▪︎石上を経て奈良への山ノ辺の道▪︎初瀬への初瀬街道▪︎飛鳥地方への磐余(いわれ)の道▪︎大阪河内和泉から竹ノ内街道などの道がここに集まり、また大阪難波からの舟の便もあり大いににぎわいました。春や秋の頃には若い男女が集まって互いに歌を詠み交わし遊んだ歌垣(うたがき)は有名です。後には伊勢▪︎長谷詣が盛んになるにつれて宿場町として栄えました」とあります。海柘榴市があったとされる桜井市金屋は、JR▪︎近鉄「桜井駅」の北1.2kmほど。欽明天皇の磯城嶋金刺宮と大神神社の中間くらいにあります。奈良県立万葉文化館には古代の市場を再現した展示があります。この施設は明日香村飛鳥10番地にあり、電話番号は0744ー54ー1850。歌垣の様子も再現されています。近鉄の「橿原神宮前駅」か「飛鳥駅」からバスがあります。