藤ノ木古墳の被葬者についての3つの説その1皇族説(崇峻天皇か穴穂部皇子か)
斑鳩町観光協会のホームページに藤ノ木古墳の被葬者について3つの説が紹介されています。令和4年(2022)5月1日に行われた「藤ノ木古墳石室オンライン特別公開」において参加者からの質問に対して平田政彦氏(斑鳩町教育委員会生涯学習課参事)が回答したものです。
質問1被葬者は誰だと思いますか? (回答1) 藤ノ木古墳の被葬者については明らかではなく、現在でも誰かわかっていません。そうしたなか、色々な方による被葬者の推理がなされていて、被葬者説については大きく三つに分かれており、①皇族説、②大豪族関係者説、③斑鳩に関係すると考えられている中小豪族説があります。
①説には、法隆寺末寺の宗源寺に伝わる絵図(宝積寺境内図)に藤ノ木古墳を「陵」として「崇峻天皇廟」と記していることから崇峻天皇とする説があります。しかし、『延喜式』には崇峻天皇の御陵は「倉橋(現在の奈良県桜井市)」にあるとされていて、現在も宮内庁が治定している御陵があります。平安時代にまとめられた延喜式にそう記されていないことや、考古学からの推定では現在の崇峻天皇陵付近に所在する赤阪天王山古墳ではないかと考えられています。また、赤阪天王山古墳の大型の横穴式石室には刳抜式家形石棺が残されていて、藤ノ木古墳の発掘調査の結果では、石棺内の二人の被葬者は骨化するまでに、同時に葬られていることが確認されていて、改葬されたものではないことが明らかとなっていますので、少し無理があるものと思われます。このほかに、古墳研究の第一人者の白石太一郎氏や、開棺(第3次)調査において担当者であった前園実知雄氏等による穴穂部皇子説があります。『日本書紀』によると穴穂部皇子は、蘇我氏系の皇子で、敏達天皇崩御後に次期天皇(大王)に就こうと行動を起こしますが、最終的に蘇我氏の協力が得られなかったことから、その政敵である物部氏に協力を求めたため蘇我馬子に暗殺されました。そしてその翌日には、穴穂部皇子の弟とされる宅部皇子がこのことに関わっていたとされて暗殺されていることから、これら両皇子の合葬説があります。藤ノ木古墳の造営年代、大型の横穴式石室や刳リ抜き式家形石棺を利用している点、大王クラスに匹敵すると考えられるくらい豪華な副葬品等から、被葬者として矛盾がないと考えられていて、二人とも暗殺という非常事態であったことが石棺内の同性の二人埋葬の状況と状況が合ってくるとするものです。しかし、この皇子がなぜ飛鳥付近でなく、斑鳩の地に葬られることになったのかといった造営の背景が明らかではないので、この説も有力だと言われていますが、決め手に欠きます。とあります。
上記の説明で、宅部皇子が穴穂部皇子の弟としてあることが注目されます。その根拠は示されていませんが、一般的には宅部皇子は宣化天皇の皇子であるとされ、二人の関係が「善」であったことから、二人同時に暗殺されたとなっています。しかし宣化天皇は既に過去の人であり、皇統は欽明天皇の系統に移ってますから、穴穂部皇子が皇位を狙う味方にしたところで大した影響力があったとは思えません。ただ宅部皇子が弟であったとすれば話が違ってきます。二人が協力してそれに物部守屋が加われば蘇我馬子にとっても脅威になります。それで先手を打って二人を暗殺したということになります。さらに暗殺した相手を近くに葬るのは気がとがめるので、離れた場所に埋葬したというのは説得力があると思われます。